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ワタシはカラダをテツガクする

病気が集まってくるカラダを自慢している。 生きてる以上テツガクするしかないね。めんどくさいけどね。

Vol.335 誰かの「ため」に?



四十而不惑  


昨日に引き続き新聞ネタになっちまいました。

昨日の日経新聞にイチローのインタビューが出てたのです。


インタビューはヤンキースの件から。

ワタシはイチローがヤンキースに、というニュースは昨年夏、心臓が壊れて倒れてCCUで寝たきりの時に母が教えてくれました。

半分植物状態にありながらもすげ~びっくりしました。

「ワタシが倒れて寝ていた数日間にも世の中はどんどん変わっていく」

・・・イチロー電撃移籍のニュースにそんな感覚を覚えたものです。


以下、記事の中で、特に印象に残った部分があったので、以下その一部引用、

・・・「・・・『何かのために』は聞こえは良い、でも時に思い上がっているようにも思える。
人間関係においても言えることだが、誰かの『ために』やろうとすると厄介な問題になることがある。
しかし、誰かを『思い』何かをすることには、見返りを求めることもなく、そこに愛情が存在しているから不幸な結果になることが少ないように思う・・・
ヤンキースは『思い』を強く持たせてくれた組織だった・・・」・・・


う~ん・・・

確かに・・・


ワタシは常々、

「生きる意味があるとしたら、それは他人の中にその意味がある」

「生きるのは他人の為」

などと思ってきました。


でも、「他人の為」というこを、自分の中で、時に良い訳にしてしまうことがあるのです。

例えば治療がまさにそう。

ワタシは「愛する人達の為にも生き続けたい」と思っています。


しかし時にそれを逆手にとって自分に都合よく言い訳をしてしまうことがあるのです。

「みんなが生きて、って願うから・・・だから俺はみんなの為にこんな辛い目に耐えているんだ!もっとサポートしろ、もっと労わってくれ!」

・・・実際にそれを声に出して言ったことすら無いものの、そういう一人舞台一人芝居的な感情が出てきてしまうことは多々あったりします・・・まさに厄介・・・


イチローが言うように、これは思い上がっている、ってことなのかもしれないな。

「誰かの為に」

責任逃れになったり、言い訳にもなったりする。

自分勝手に見返りを求めたのかもしれない。


「誰かへの『思い』」

なるほど。

そういう気持ちね。


「他人の為に生きる」という考え自体、というよりは、そこに至る道筋、およびそこから発生する考えや行動は少し修正した方がいいかもな、

・・・って感じですげ~反省させられました。

もっともっと、考え続けないとな。

愛情・・・


イチローも40歳、これをきっかけに日経新聞で73年生まれの著名人を特集するそうなので楽しみです。

ワタシも32歳・・・40歳のちょっと上の世代は身近な目標になったりします。

でも、

有名な人って、結局凄すぎるから、目標にしたり、生き方を真似したりするのってすげ~難しいんですよね、これまでのほほ~んと過ごしてきた凡人には。笑。

でも勉強になったり刺激を受けることは必要ですもんね。

向上心・・・・


おわり

ちなみに、ワタシは松井のが好きですw

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Vol.276 病気発覚後の人付き合い



一人遊びが得意です


今日もいつものようにお勤め(通院)しました。

引き続き、相変わらず、なんだかんだ、ということで、体調は良好です。

特に言うことありません。


なのでネタが無く、宮迫胃がんネタを見て、ふと思ったことを書きます。

テツガクって感じじゃなくて、ただの事実ですが・・・あしからず。


宮迫さんの今回の場合、まるで「癌」というフレーズを明かすのがタブーになっているような報道の仕方です。

だから逆に宮迫さんが「癌」と分かってしまう、という・・・消化器系の疾患・・・手術・・・症状無し・・・とくれば癌しか無いでしょうよ・・・


ガンのような重病を誰にまで言うか?というのは癌人特有の悩みですよね。

芸能人に限らず、病名をなかなか明かさず、口ごもるケースとかは普通です。


一昔前、逸見さんが、

「私の冒されている・・・病名はガンです・・・」

みたいに言うと、まるで、

「はい、死亡~」

扱いな訳で、世間のガンに対するイメージは未だに悪いままです。


もっと広く言うと、「病気」に対するイメージが悪すぎます。

つまり「死」に対するイメージなんですかね?

何故にこれほどまでに人は「死」を忌み嫌い、タブーにするのか・・・って、それはまた別な話でそれこそテツガク的ネタで。


宮迫さんも、きっと、誰に、どこまで話すか?

そして、それを聞いたり知った人も、誰に、どこまで話すか?話してよいものか?

・・・というのは悩みポイントだと思います。


ワタシの場合ですが・・・

ワタシは別に病気を隠していることは一切なく、別に誰に何を知られても構わないのですが、いかせんせん重病な訳です。

だから、もし自分から説明するとなると非常にめんどくさく、聞いた相手はショックを受けてしまうことが明白なんです。


世間のガンに対するイメージ一般と同様、ワタシからワタシが病気だと告げられた方は、その後の対応に苦慮されることでしょう。

向こうもワタシも気を遣います。


ワタシが「いや、別に気を遣わなくていいですよ」と言っても、そうはいかない訳で、そうやってまた気を遣い合うのも面倒だったり・・・

だからあまり言いたくはないのですが、かと言って、嘘をついて、まったく健康体だ、というフリをするのも面倒なんです。

本当に面倒です。


スタンスとして、

「自分から病気を宣言することは無いですが、聞かれたら全て答えます。」

「がしかし、知らない人にまったく健康体として扱われてもなかなか困るケースもあるもので・・・ワタシ自身も気を遣って健康なフリするのも面倒でして。」

・・・というような感じで、なんだか結局かなり我儘なんです、ワタシが。笑。

「聞かれたら別に隠さず言うけどさ、全部を聞かなくてもなんとなく察してくれよ?」っていう?笑・・・相当傍若無人ですよね・・・笑。



特に問題なのが「病気発覚前からの」友関係であります。

おそらく多くの病人の方もそうでしょう。


まったくもって元気な時のワタシのキャラクターしか知らない、学生時代の交友関係などは、今はほとんど0になってしまいました。

いや、ワタシが自らそうしているのです。


別に病気を気にせず、自然なままで交流を続ける道もあるのでしょうが、まったく病気を隠すか、それとも全てを言うか、の二択になるケースがほとんどなので、結果、付き合いから逃げる、ような感じになってしまうんですね~・・・

だって、めんどくさいんだもん・・・


説明するのもめんどくさければ、隠すのもばかばかしい、だから、逃げる、それでいいや・・・という感じです。

それに過去の友達に対して、

「積極的に病気を明かして支援をお願いしたい、話や愚痴を聞いて欲しい」

みたいな気持ちも皆無です。


ということで結婚式や、飲み会などのお誘いは、病気になったここ数年、もちろんカラダの関係で物理的に行けないことのが多いですが、ほぼ適当に断り、ワタシは自ら病気発覚前の交友関係を断ってしまいました・・・


「最近どうよ?」

という、お決まりのトークに対して、ワタシは病気の事無しには反応出来ず、結局ごまかしトークやあたりさわりのない世間話や仕事ネタでお茶を濁すことしか出来なくなるのです。

一応、過去には友達だった人たちと、果たしてそんな身の無い会話で自分が楽しいかと?

それは必要かと?


また、過去の学生時代などの友人の中にも、ワタシの病気を知っている人もかすかに数人いたりしますが、心配して連絡くれる人も今は居なくなりました。

もちろん、ワタシ自身が、過去の友人はどうしてるかな~、と連絡をしてみたくなることももちろんあります。

ワタシは優しいのです。

でも、結局、ワタシの話はしにくいため、それも躊躇しているウチに今では過去の友達のことがまったく気にもならなくなってしまいました・・・

ワタシは優しくなかったのです。


まあ、ワタシがこれまでの人生で、そういう薄い人付き合いしかしてこなかった、ということでしょうね。笑。

それで今のワタシは特に困ることも無く・・・



逆にですが、病気になって以後の交友関係は今はとても大切に出来ている気がします。

家族にフォーカスしてみると、その絆はむしろ深まっています。


それに、会社の人も結構御付き合いしやすいものです。

会社の人はさすがに、ワタシがこうして休んでいることを知っていますから、詳しい病状とか病名までは知らないまでも、

「なんかヤバいらしい」

ということは知ってくれているので、付き合いやすかったりします。

つまり、ワタシがすべて言わないまでも、なんとなく雰囲気を察してくれるので、ワタシも相手に過度に気を遣わせない距離を掴みやすいのです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

まあ、これが果たして良いのか悪いのか、良くわかりませんが、特に交友関係についてはこれ以上何をしよう、とか思うこともないので、これでよかったんだ、ってことにワタシの中ではなっております。


ジョカノとこんな話をたまにするのですが、やはり年齢的にも(ジョカノは同い年)アラサーというのは、仕事にしても分岐点だし、プライベート的にも家庭が出来たり子供を持ったりするタイミングなので、交友関係が「減る」というより、「変わる」とジョカノは言っていました。

だから、ワタシが、

「俺、昔の友達とはほぼすべて切れちゃったんよね~・・・」

なんてボヤくと、

「別に、それフツーよ?病気関係なく。 今のワタシ君に昔からの友達は必要ないってことじゃない?・・・何?友達欲しいの?笑。」

なんて言われました。


こんなもんなんでしょうね。


実際、ジョカノも、若いころ等は友達や知り合いは無限に居たのに、今も繋がっているのは数人、それも2人3人レベルだ、と言っていました。

ワタシよりも遥かに社交性も高く、人の面倒見も良い彼女がそう言うのだから、「病気」に関係なく、そんなものなのかもしれませんね。笑。


ってことで、、、

友達募集中です。笑。


おわり

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Vol.274 病人と社会との関わりについて偉そうに述べる



手先は器用な方です


先日、会社の人と会った、とここでも書きました。

ワタシの当初予定の1年間の休職は、今年の秋まででした。

本当は7月に倒れた頃に、会社とその後の話をする予定だったのですが、いかんせん死にかけていたので、その後の相談や手続きなどが半年止まってしまっていたのです。


まあしかし、「会社」というドライな組織ですが、ここまでワタシの体調を考慮し、こういう宙ぶらりんな状態でも半年間そっと見守っててくれたことには感謝です。

会社、および今の人事部の方々には本当に感謝をしてます。


先日、人事部と会った時に、

「医者は復帰についてなんと言っているのか?」

との問いかけがありました。

その場では一応、

「命の危機から脱してやっと退院したばかりで、仕事云々の話をするレベルではない」

みたいにお茶を濁しました。


一応、社会的な常識・慣例として、

「医者が復帰や休職の判断を下す、そしてその医者の意見を元に休職・復職が来まる」

と思われがちなのですが、ワタシ含め癌やこういう難病の性質上はおそらく医者が、

「仕事していいよ、仕事しちゃダメ」

と明確に判断することはほぼ無いだろうと思います。


例えば明らかに状態が悪かったり、逆に元気になって、検査結果的にも健康体な人となんら差が無い状態になれば、医者が明確に返答をすることはあるかもしれませんが、ワタシの場合などはおそらく、

「仕事?出来るならしてもいいけど、無理しないように。」

・・・おそらくそう言われるのがオチです。


特にガンはレントゲンに腫瘍があっても元気に仕事をしている人がたくさんいるであろうし、今のワタシも「それなりの無理を覚悟すれば」仕事をしようと思えば出来る状態だと思います。


結局、自分の考えで休むかどうかをワタシは決めています。

昨年夏に胸腺腫が再発してワタシは思い切って休職の道を選択しましたが、その際も、経口の飲み薬で治療をしている間は仕事を続けられた訳ですが、休む選択をしました。


その際にも実際に医者に仕事を止められた訳では無く、ワタシから、

「1年仕事を休もうと思う」

と当時の主治医先生に相談し、賛成してもらい、診断書を「ワタシの考え通りに」書いてもらったのです。


そして今回ですが、とりあえず、ワタシからは、

「今の状態を考えると、次の春からの復帰は無理だろう」

とは言いましたが、会社の手続きなどの関係もあって、とりあえずのところは一旦春まで休職を延長しよう、となりました。

そして今後は今までよりもマメに会社の人とも会ったり出来そうなので、今までよりも細かいスケジュールで状態を確認して、また年明け以降、春以降の話をしていこう、となりました。


とのことで、先日、今のB病院の呼吸器の主治医先生に、「春までは自宅療養を要す」との診断書を書いて貰って、会社に送りました。

ということで、また春以降の展望を考えないといけないのですが、これもこれでいろいろ厄介な問題が沢山あって正直面倒です。

まあそれもこれもワタシの体調が読めない、というのが最大の問題なのですが。


「仕事?出来るならしていいよ」

という、医者が言うであろう言葉は事実でして、実際そうなのです。

仕事は出来なくはないのです。

しかし、今日仕事が出来ても、来週仕事が出来るかどうかは分からない、それが今のワタシです。

それはおそらくこれから半年、1年療養したとしても改善できるものではありません。


会社に迷惑はかけられないんです。

会社は優しい言葉をかけてくれたりはします。

「無理せずに、君のペースで働けばいいよ」と。


実は、休職する直前1年くらいの間は、ワタシも実に働き方で日々悩んでおりました。


一度目の手術から復帰した後でしたから、カラダのことを考えると無理しちゃいけない、と思って仕事をセーブしたいと思って、会社には異例の勤務時間短縮の時短措置を取ってもらったりしていたのですが、、、

しかし、その恩恵で早めに帰れたりすることこそ増えましたが、結局あまり勤務実態は変わりませんでした。


ワタシが時短措置の社員だから、と言って会社の仕事が減る訳でも会社の目標が下がる訳でも無いのです。

ワタシの時短分、人がその分増員される訳ではなく、結局ワタシが時短を実現するには、ワタシのパフォーマンスを上げるか、他の社員が残業を増やすかパフォーマンスを上げるか、しかないのです。

結局、ワタシはそれで自滅しました。


仕事の効率を上げれなかったワタシに問題があったのですが、これは仕方なかったと思います。

「仕事を効率的に、今まで以上に頑張らないと」と思ってしまったので、「カラダのことを考えたら、仕事はほどほどに、ストレスが一番良くない」という思いと矛盾することになってしまったのです。


仕事にもっと打ちこまなきゃ!という思いと、無理しちゃいかん、これ以上悪化したら俺は死ぬんだから無理しちゃいかん!もうこの程度で良いのだ!という思いの狭間で悪循環にはまり・・・

折角我儘を聞いて貰って、部署の上司や他の社員に気を遣ってもらって時短にしているのに、ワタシが満足いくような成果を上げられないことにワタシ自身も相当なストレスを感じるようになり・・・

常に会社の皆に後ろめたい気持ちはありました。


当然それはカラダにも良くない訳で・・・

ストレスでワタシは暴飲暴食することが多くなり、尿管結石になったり。笑。実に、いや、今以上に体調はこの頃は悪かったですね、荒れました。

まあ仕方ないですかね、病人も治療が必要でも仕事も必要なのです。


カラダの健康向上も、仕事も、どちらも器用にこなせるワタシであればよかったのですが、ワタシは不器用でした・・・

不器っちょですから・・・


そんな仕事も、カラダのケアも、中途ハンパでどっちつかずでズルズルしていたワタシは、胸腺腫再発を機に、

「一旦はカラダのことに集中してみよう」

と思い切って決断し休職した訳です。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


というワタシのケースをモデルとして、、、

こういうことはおそらくワタシだけじゃなさそうです。


病気を抱える人はもちろん、例えば育児や介護など、家族の都合で、仕事に制限がある人にも同じ問題はあるはずです。

最近はウチの会社含めて一企業でも、ダイバーシティ(直訳すると「多様性」らしい)などと言って、様々な境遇を抱える人間や、いろいろな考え方の人間を積極的に認めて、活用して、なんちゃらかんちゃら・・・(すんません、よくわかりませんが。)という動きも盛んですが、とても難しいです。


何故難しいか、というと、そういういろいろな境遇を抱える人たちを「共通の雇用制度や契約」で働かせているからでは?と思っています。

ウチの会社も、契約社員、というのが契約の違いで確か2~3種類あって、その他の大部分の社員が「正社員」と一括りです。


それは会社側の問題になりますが、労働者側にも問題があるのです。

例えば病人になってしまったり、子供が出来た、親を介護しなきゃならん、となった場合、それにも拘わらず、

「出来る限りは今まで通りの仕事を、責任を、まっとうしたい」

などど思うケースもあるでしょう。

実際にワタシは今の会社では正社員という身分ですが、時短措置をしてもらう際には、いっそのこと、仕事のレベルもストレスも下がり、確実に時間で仕事を切れるであろう、契約社員にしてもらうか、と思ったりもしました。

しかし、そうなると、仕事の内容はほぼ事務員みたいになり定型ワークになり、そうなると果たして、

「この会社に居る意味があるのか?」

となってしまって悩みました・・・

カラダのことはセーブしながらも、それなりに仕事にはチャレンジングでいたい、といささか我儘な思いもあったのです。


会社も労働者も結局どちらも自己の立場で都合よく考えますから、とても難しいんです。


こういう問題、少しでも解決するには、ワタシはやっぱり人を増やすしかないと思います。

単純で申し訳ないですが。


つまるところ、ワーキングシェア的な発想を取り入れて、一人一人の給料を減らしてその分人を増やす、みたいな。

会社の業務が一人一人に「依存」する度合いを減らせば、一人一人の多様性を実現できるのではなかろうか、と思います。


一人への依存度が低ければ、その人が例えば来週、筋炎が悪化して入院することになったとしても、会社も最低限の被害で済むだろう、という単純な発想なんですが・・・

一人一人への依存度が高いほど、やはりその人は会社の都合ありきで動かざるを得ませんし、いくらダイバーシティだの言ったところで、「ビジネスという会社の本質」が変わることは有り得ないと思うんです。

だから、会社の本質・目的が変えられないのであれば、ワークライフバランス(仕事と人生を切り離す思想はワタシは嫌いだが。)とでもいいましょうか、単純に一人一人が仕事をする時間と労力を減らせばいいんです。



そして人を増やすなら、雇用制度や契約の幅や柔軟性も、もっと確保しないといけません。

当然、社員間での公平の問題もありますから、雇用制度に応じて給料にも差をつけなきゃならんでしょう。

でもそういった雇用に柔軟性を持つことで、人も働きやすくなる結果、人の流動性も確保されるし、それが人を増やすことに繋がるでしょう。

勤め先として人気がある会社は、すなわちこういう「制度」の種類が豊富で、経営者側と労働者側が相互に理解し合った結果、その「運用」もきっちり出来ている会社のはずです。


人を増やす、と言っても、それは一企業の話でして、例えば町の中小企業で人を増やすのは単純なことでは無いですよね。

逆にマクロに目を向ければ、赤ちゃん用オムツよりも大人用オムツのが売れている我が国において、そういった「仕組み」云々よりも、「そもそも働く人が居るのか?」などと、いよいよ問題もまさに「ダイバーシティ」になっていって、政治家さんの考えなきゃならんことになる訳ですかね?・・・

めんどくさいですね、世の中は。笑。

一つの問題が全ての問題に繋がるのですね。

ワタシ一人の問題を通して、今の世間の状況が垣間見れたりします。


まあまあ、

アラサーという働き盛りの年齢で「病人」という多様性をゲットし、大人用オムツをまさに体験することになったワタシですから、笑、折角なのでそれを生かして、少しでもこういった問題をこれからもテツガクしてみよーかなー、などど偉そうに思っています。

取り急ぎは、自分がまずどうするか、考えなきゃならんのですがね、それはまあ来年からでいっかな。笑。


年末年始まではとりあえずはメンドクサイことからは逃げたい・・・


勘弁してくれ・・・


おわり

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Vol.258 続・覚悟を求めたくなる事情(コメントへの返信に代えて)


クリスマス選挙~?


昨日の記事に貴重なコメントを頂きありがとうございました。

それについて、また書きたいことが出てきましたので、頂いたコメントを一部引用させて頂きながら返信として書かせて頂きます。


らんらんさんから頂いたコメントです。

>「あきらめない」という言葉があります。
>これは、病気が治ることを指しているのか、この病気での死を前提に、最期まで生活の質を充実させることを指しているのかということを迷っています。



実はワタシもこのブログの初期に「闘病」「共存」について思うことを書いてまして、

⇒ Vol.15 ワタシは病気と闘っていません。

今の気持ち、実はさほど変わっていません。

この記事を書いた時も、ワタシは「これから先、この病気によって苦しみや痛みに苛まれたら気持ちは変わるかもしれない」ということを書きました。

それから今に至るまで、この病気のせいで抗がん剤治療や放射線治療を重ねることで、そこそこ苦労し、筋炎の悪化で死にかけ、そして心臓事故でまさに一度、家族共々死んだのです。

でも意外に気持ちは変わっていませんし、この病気のお蔭で、そしてあの心臓事故のお蔭で「死」を「意識(覚悟)」することで、

「より生きている今を充実させなければ」と思えたのですから、

むしろ「良かったかもしれない」とすら思う自分も今はいます。。。



ワタシの個人的かつ、失礼な見解を承知で述べるのですが、

「闘病」を強く標榜している病人の方は、

本来の自分、つまり「病気じゃない自分(完治した後の自分)」と、「闘病中の自分」をあまりに分断しているのでは?と思います。


ワタシもよく言葉として使ってしまいますが、闘病中の自分をイレギュラーだと、非日常だと、本来の自分の姿ではないのだ、と・・・

そして、自分本来の目標や夢は、完治した後の自分じゃないと達成不可能なのだ、と・・・

そう思っている方が多いようにお見受けします。

(※結局この話は全て病気の性質にもよるのですが、それはひとまず度外視してください。ワタシもらんらんさんのように平滑筋肉腫だったら、どう思うか分かりませんが、そのことはひとまず置いといて。)


それだとなんか、闘病中の自分がもったいない、かわいそうな気がします。


事実は変えられない以上、闘病中の自分も、もはや「日常」なんです。

どの自分が本来か、そうでないか、その区別は無く、病気だろうがなんだろうが、どんな自分でも「本来の自分」なんです。


つまり、「日常」である以上、人生の本質は何ら変わっていないはずなんです。


だから人生の「目標」を変える必要はないのです。


ただ、その「目標」を達成させる手段の一つに「治療」を入れざるを得なくなった、という「だけ」ではないでしょうか?


ちなみに、ですが、

教壇へ「戻る」という目標を持っておられるらんらんさんは、病気が発覚する前の目標は何かありましたでしょうか?

じゃあ、教壇へ「戻れた」らどうしますか?


らんらんさんの病気の場合、「完治或いは限りなくそれに近い状態」を達成しないと、教壇復帰が難しいこともワタシは分かります。

なので、あくまでも今は「完治を目指した日々の健康への取り組み」を第一としながらも、らんらんさんが抱いていた、病気発覚前の目標に向かって少しでも近づかれてはいかがでしょうか?


らんらんさんのお考えを否定する気はないのですが、

「完治」

を今の目的とすると、らんらんさんは今、

「治療の為に生きている」

ことになってしまいませんか?


らんらんさんは、人に、生徒に、「いのちを伝えたい」と仰りましたね?

であれば、日々「教壇復帰に向けた健康への取り組み」に加え、「いのちを伝える取り組み」を始めてみてはいかがでしょうか・・・?

結局、病気になったからと言って、らんらんさんの「人生の目標」は変わっていないはずです。


「病気になっていなかったらやってたであろうこと」を、

「病気になってしまったけれども別なやり方でやってみよう」みたいな感じに考えていくと、精神衛生上も良いような気がします。。。

少なくともワタシはそうです。


逆説的になりますが、病気の「今」を、

「日常・切っても切り離せないもの・ありのままの自分」

と受け入れることで、逆に、

「病気を忘れられる」

時間が出来るのです。


そう、

受け入れることで離れることが出来るのです。


常に病気と正面から向き合い、受け入れを拒むと当然、病気は常に視界から消えません


病気を自分のカラダに取り込むんです。(すげ~わかりにくいっすね。笑。)

(※らんらんさんが、ワタシを強い、と思われるのであれば、それはここに理由があると思います。)


これ、以前らんらんさんも書いておれらましたよね?

らんらんさんが病気から離れる為には何より「いのちを伝える取り組み」を実施することではないでしょうか?

そうやって、教壇に「戻れた」後のことを想像していきませんか?少しづつでも。。。

それも「健康への取り組み」に絶対繋がると思うのです。



「闘病」か「共生」か?

QOLを犠牲にした辛い治療に耐え「完治」を目指すか?

完治を「あきらめて」QOLの維持を図るか?


・・・・なんか、あまりそれを意識して分断しない方がいいのかもしれませんね・・・

ワタシも、一応、ですが、手術や抗がん剤をそれなりに経験してきました。

痛みや抗がん剤の副作用に悶絶したこともあるし、筋炎やMGが悪化して呼吸器と酸素の助けが無いと寝られない程苦しくなってしまったこともあります。

カラダの力が抜けて起き上がれなくなることもあるし、納豆のタレが空けれない程筋肉が動かなくなることだってあるんです。笑。


結局、そういう状態になってしまうと、治療以外何もできなくなってしまうし、痛みや苦しさは、時に「もう死んでいいや」という気持ちすら運んできます。。。

でも、そういう症状を「治療」しながらも、少しでも自分の望む人生に向かって何かをする・・・「完治」を目指しながらもQOLを高めることは意識次第だと思うのです・・・

どんな状態であれ、「自分の人生」を生きる。

それがすなわち、

quality of life

ではなかろうか・・・?



あまり「闘病」とか「共生」とか、そういう言葉に惑わされて、自分の中で強引に分断しないことです。

100人の病人の意識をこの二つに分けることも無理がありますので、らんらんさんは無理にどちらかに決める必要もないのでは、と思います。


最近よく登場させてるので、ここでも使わせてもらいますが、中国のテツガク自由人・荘子先輩が言うには、

「その人が発した言葉は『鳥のさえずり』とどう区別がつくのか?・・・その人が区別はつく、と思っていたとしても、それはあやしいものだね。」

と、相変わらず人間の言葉への不信を表明するとともに、

言葉は同じ「音」でも、発する人・聞く人それぞれに、それぞれの意図・解釈が成り立ってしまい、

一定の正解は無い、

ということを言っていると共に、

発している本人ですらも、その言葉を自分でどう解釈しているのか?自分でもわかっていないものだ、

ということも言っておられるのです。



「近いうち」が、年内なのか、来年なのか、はたまたそれに時間的な正解は無く、ただ状況を打開するための暗示・記号だったのか・・・?

十人十色、勝手に解釈が出来ちゃう、ってことですかね・・・?


「近いうちに」も「闘病」も「共生」も、誰かが作ったただの「言葉」です。


大事なのは言葉で表せない「心の中の気持ち」であって、そこに真理があるのだと思います。


なので、「闘病か共生か?」という「言葉」に惑わされることなく、

らんらんさんはらんらんさんなりの「闘病」する、という「心の中の気持ち」を、

ワタシはワタシなりの「共存」する、という「心の中の気持ち」を、

お互い追求していきましょう。笑。


う~~ん・・・

うまくお伝え出来た気がしません・・・汗・・・


しかし、今のワタシにはこれが限界です。。。

ごめん、らんらんさん。。。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


お待たせいたしました、

まちゅみさんの番です。笑。


>ワタシさんの 家族との温度差、とても理解できます 我が家でも微妙に内容は違いますが温度差は生じています
>私…余命明後日と言われ 何だかんだとまだ生きてますが 死 に対して 自分の 死 に対しては覚悟はできています ん? できているつもり…が正しいかな?笑~ 死 に対して一番怖くて悲しくてやりきれないのは 残される家族のこと とくに夫… だから 頑張って生きながら少しずつ 私がいなくなったら…のシュミレーション…もう少ししたらいなくなる…の現実を洗脳しているところです



ワタシも一緒であります。

ワタシもまさに、自分の死について、覚悟できている『つもり』だと思います。

・・・たぶん、まちゅみさんじゃないですけど、明後日死ぬ、となったら、パ二くると思います。笑。


実はワタシも、闘病生活の初期のころ、まちゅみさんが旦那さんにしておられることと同じようなことをジョカノに言ったことがあったんです。

「俺が居なくなっても強く生きていけるようになって欲しい・・・」

みたいな。。。

しかし、当時のジョカノにそれは無理だったし、そんな考えもなかったようで、

「ワタシが居なくなる、ということを『前提に』生きていける訳は無い」

と逆に怒られてしまったんです・・・


しかし、ジョカノは7月にワタシが例の死の淵へ行った際に、ワタシの死を否が応でも意識せざるを得なかったようで、これを機に、

「私も覚悟しなきゃな、と思った。」

みたいなことを最近ワタシに言ってくれたんです。


母親と恋人では、立場も思いも違うので当たり前かもしれませんが、母親に比べると、ジョカノはワタシの考えに近いテツガクを持ってくれているようです。

つまり、

「ワタシと一緒に生きて居る『今』を大切にしよう』

と、あくまで

「ワタシの死後、一人で生きていく覚悟」ではなく、

より、ワタシと一緒に『生きている今』を大事にしよう、という意味の「覚悟」です。


ワタシとジョカノは、ワタシが死にかけた経験によって、より生きて居る時間を大切にしなきゃ、という『覚悟』が『ほんの少しだけ』出来たのだと思います。。。


>でも 自分の 死 に対しては そうでも やはり自分の子供… と考え…というか考えられません…考えるのもおぞましい!!… 自分の命とは全く別格のものです… ワタシさんの抱えるストレス…きっとここらへんでしょうね…


当たり前ですよね・・・・

ワタシの母は若い頃、カラダがあまり丈夫な方では無かったらしく、やっと授かった、しかも自分も危うい目に遭いながらも産めた子がワタシだったのです・・・

それはワタシが初めて「癌」を告知された時、家族3人で泣きながら父が教えてくれました。


そんな母にワタシの死を覚悟して受け入れてほしい、だなんて無理な話なんですよね・・・


ワタシは数年前の病気を宣告された当時に思ったことがあったんです。

それは、

「自分でよかった。」

ということです。


両親やジョカノが同じ病気になる位なら、自分がなった方が遥かにマシだ、と思ったんです。

恐怖の度合いでいったら、「自分の死」よりも「愛する人の死」の方が圧倒的に恐怖です。


でも、それってなかなか自分勝手な思いでした・・・

それだと「自分が死ぬ」ワタシは良いとしても、「愛する人が死ぬ」両親やジョカノは、ワタシが感じている恐怖よりも遥かに大きい恐怖を感じる・・・

そして今、ワタシはその覚悟を母に求めようとしている・・・


>でも人間って 自分の意思とは全く違うところで 覚悟…というものを形成してたりして…私の経験上ですが …現実になったときに その覚悟がほんのちょびっとだけ 現実を和らげるクッション的な役割をしてくれたりします

そうなんです、ワタシもそう思うんです。。。

ワタシもこれまでの人生で、特に闘病生活でそれを学びました。

10のショックが8くらいにはなるでしょうか。笑。


だから、母にも・・・

ワタシがこのまま死んだら、なんだか母は廃人になってしまいそうな気がするのです・・・


かといって、今書いたように、「最愛な人の死」という、「自分の死」以上の恐怖を覚悟せよ、というのも無理な話だ、というのも重々理解できます・・・


ワタシは母との残された時間を大切にしたい・・・

そして何より、ワタシが例え母より先に死ぬことになったとしても、悔いが無ければ、つまり、ワタシはワタシの人生を全うして、良い人生だったと、とても幸せだったと、産んでくれた母に最高の感謝をしながらまた再び母のお腹に還ることが出来れば・・・

それが何よりの親孝行なのでは、と思っています。


まちゅみさん・・・どうでしょう・・・?

ワタシと同世代のお子さんが居るまちゅみさんはおそらく母と同世代(ちょっと下だと思うけど。)ですよね・・・

ワタシは母に何をしてあげられるでしょうか・・・?


今のまちゅみさんに聞くのは余りに酷かもしれないけど・・・

そう、

> …今日はケモの日でした~ 相変わらずまとまりのないダラダラ文章でごめんなさい

ってか、まちゅみさんは大丈夫なんですか?

大丈夫だよね?


まだまだナースまちゅみさんにアドバイス貰いたいですよ、ワタシも。

そうそう、例の脚の鼠蹊部のPCPSを入れてた所の傷だけど、まちゅみさんも言ってくれたように、毎日清潔に、シャワーでバシャバシャ洗っていたら、一気にキレイになってきたよ!

喉の気切の穴も、さすがに跡はガッツリ残ったけど、もう完全に塞がって、違和感なく暮らしているよ。


・・・・・・・


こんなこと言ったら、怒られるかもしれないし、逆にまちゅみさんを悲観させちゃうかもしれないけど、今のワタシの正直な気持ちを今からまちゅみさんにぶつけます・・・


聞きたいんです・・・






まちゅみさん、







死なないよね?








来年も学園祭でラーメン売るよね・・・?





おわり
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Vol.257 覚悟を求めたくなる事情


休刊日なので新聞見る代わりに朝からブログを書きました


ワタシは死ぬことを覚悟しています。


偉そうに言いましたが、この覚悟、「人生の中のある特定の瞬間に決まるモノ」でもありません。


となると、「覚悟している」というよりも、

「出来る限り、死ぬ、ということを『しっかりと』意識して、日々生きる」

という感じになるでしょうか・・・?


死ぬことをしっかりと意識することで、生きている時間を大切に出来る、そんな気がしたから、しっかりと覚悟を決めようと思ったし、実際にそう出来ている実感もあります。

これはいいことだと、自分でも確信しております。


病気じゃなかろうが死ぬ訳だし、人は、

「死なない為に生きている」訳じゃないし、

「生きる為に生きている」訳でも無いと思うのです。


だからこそ、

「死をしっかりと意識すること」が、

有限である自分の命をどう使うか?、つまり、

「生きることをしっかりと意識すること」

に繋がっていくのだと思います。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


という話を前提に・・・


では、家族に対して「ワタシが死ぬことを覚悟してもらうこと」は出来るのでしょうか・・・?


ワタシが病気を告知されてからずっと悩んできましたが、最近特にその悩み・ストレス・孤独感が大きくなってきました。


どうも家族は、ワタシの病気に対する理解が浅く(※それはワタシにも原因があるのだろうが)、というよりも、現実から目を背けている気がしてならないのです。

盲目的に「ワタシは大丈夫だ、治る、大丈夫だ・・・」などと、現実から逃げて、目と耳を塞ぎながら自己暗示的に叫んでいる気がしてならないのです。


もちろんワタシには現実逃避をしている余裕は無く、(※たまには逃避したくなるし、することもあるが。)しっかりと死ぬことまでを意識しながら、日々の人生を充実させなければなりません。

その為に、現実をしっかりと認識して、治療の判断もしていかなければならないのです。

だからこそ、現実逃避をしている家族との温度差にストレスや孤独感を感じるのです。

時にそんな家族からワタシも逃げたくなるのです。



がしかし、、、

特に両親ですが・・・

「自分の子供が自分より早く死ぬ・・・」

こんな悲しいことを普通は覚悟出来ませんし、したくもありませんよね・・・


子供が居ないワタシに親の気持ちはわからないのです。


「残り少ないかもしれないワタシとの時間を、大切にしてもらいたい、その覚悟をして欲しい」・・・

このようなワタシと同じ「覚悟」を家族に求めたくなるのはワタシの我儘なんですかね・・・?


いや、我儘だろうな・・・たぶん・・・

これはワタシが今のストレスから解放されたいが為の我儘だと思います。


家族に限らず、人と分かり合えないのはストレスだったりします。


しかし、家族だろうと分かり合えないことはいくらでもあるのです。


最近テレビを見て思い出しちゃいましたが、エバンゲリオンの人類補完計画だったり、ガンダムのニュータイプじゃないけど、人と人が完全に理解し合うことなど無理だし、その必要もないのです。

それはワタシは分かっていたはずなのに・・・


だから・・・

このままでいいんだ。

うん。


でも、ワタシはこのことを教訓にして、逆に、

「家族がワタシよりも先に死ぬ」

こともしっかりと「覚悟」しなきゃ、と思いました。


家族に限らず、そういう意識を持つことで、他人を大切に出来る・・・

そんな気がします。


おわり
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Vol.246 すれ違う思い


プレッシャーきついです


闘病開始以来抱いてきた「漠然とした心のモヤモヤ」が一つあります。

ここ数日、自宅で充実したノンビリライフの中、ゆったりと思考を巡らせることで、そのことについての輪郭が少しだけハッキリしてきました。



モヤモヤというのは、家族との「思いのすれ違い」です。



家族や周囲の人々はどうもワタシの「完治」を願っているようです。


しかし、ワタシは「完治」を願っておりません。(というか諦めております。)

これはワタシの胸腺腫がもう当初から末期であったこと、さらにこの1年で重症筋無力症や多発性筋炎という、「完治」という概念が考えにくい難病になった、ということで、病気を「コントロール」してうまく付き合っていくしかない、という考えに至ったからです。(もちろん完治する「方法」があるならそれを目指す。)


これまで幾度となくワタシは自分の病気の性質や自分の考えを家族に説明してきました。

口論になったことも何度もあります。


でもやはり家族は「完治」して欲しいようです。


未だに、「特効薬はないのかね~」「他の病院に行きたいね、もう」「名医はいないのかね?」「あのTVで、あそこの病院に名医が居るって言ってた!」

などと、前向きに今の先生方を信頼して治療を続けるワタシの前で平気で言ったりします・・・涙・・・


この「完治してほしい」という家族の思いは、それを不可能と諦め、それでも悲観せずに前向きに「コントロールしていこう」としているワタシに多大なるプレッシャーやストレスを与えています。

ワタシは時に、そのプレッシャーやストレスが心底嫌になり、家族から離れ一人になりたい時が多々あります。


「家族を悲しませたくない、家族の思いには応えたい」

というワタシの思いが、そのプレッシャーやストレスを引き起こしているのです。

一番近い家族に、自分の考えが理解してもらえていないことは苦痛であったりします。



でも、

人と人が、その思いや考えを一致させて、全てを理解し合うことなんて所詮不可能だとワタシは思っているし、その必要も無い、と思っています。

僅か30年の人生ですが、恋愛含めて色んな人と深くも浅くも関わりながら、ワタシはその思いに至りました。


人と人が理解しあえない、「違う」部分があるからこそ、人は人に惹かれ、恋愛もするのだと思うし、人は生きていく為に人が必要なんだと思うのです。


基本的に「違う」からこそ、理解しあえて「同じ部分」を発見した時に感動があったり、親近感・信頼感・恋愛感情等が芽生えたりするのではなかろうか?

逆に自分ととことん「同じ」人が居ても・・・たぶんそれってなんだか気持ち悪いし、以外につまらないのではないか!?

・・・そう思います。



それに、「完治」か、「コントロール」かは、実はたいした問題じゃありません。

「完治」か「コントロール」かは、それはワタシの人生の「手段」にすぎず、「目的」ではありません。

「少しでも長く生きてワタシの望む人生をワタシが生きる」ことがワタシの人生の「目的」であり、それは家族も同じなんです。


だからいいのです。

一番大事な部分の思いは共有できているのです。

だからこそ一昨日の記事で書いたようにワタシは家族に感謝できるし、生きて居る実感が出来るのです。


大切な人の病気の完治を望むことは普通だし、大切な人が自分より先に死んでしまう不安や恐怖から解放されたい気持ちは当たり前です。

だからワタシの家族がワタシの「完治」を望むのはごく当たり前です。



だから、この問題に関しては、これでいいのです。


すれ違ってても良い問題ならば、曖昧にしておいても良い、

最近ようやくそのテツガクを得て楽になり、「漠然とした心のモヤモヤ」が少しだけハッキリ見えてきたので楽になりました。


しかし、遅かれ早かれ「完治」が不可能だ、と家族が理解する時は来るでしょうから、その時にどうするか?は考えないといけませんかね~。

※すでに完治が不可能なことは十分理解してくれており、ただワタシを励ますために「完治」を言ってくれている、ということもあると思いますが・・・


まあでもそうなったらネッコリ話し合うしかないし、とにかくワタシが元気に生きて居ればいいことです。


おわり
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Vol.244 病気に生かされている



全て病気のお蔭


病気になってからの数年、特に7月に死の淵に行ってしまって以後、色んな人から色んなモノをもらうことが増えました。

お守りとか、パワーストーンなんかは特に集まってきます・・・

ストラップとかも・・・ワタシの携帯は昔のベッキーの携帯状態になりつつあります。笑。


ワタシが外泊や退院で家に帰る度に豪華な肉や玄米などを送ってくれる人もいます。

いつも大量のレモンを送ってくれる人もいます。

どこぞかのお土産品なんかももらう機会も増えました。


ありがたい、です。


色んな人に心配してもらい、生き残ったことを喜んでもらい、とても「ありがたい」です。


本当に「ありがとう」という気持ちが心から湧き上がってきます。


ワタシは本当に「まだまだ生きていたい」と願っております。

そして、同じようにその思いを抱いてくれている人がいます。

自分の思いを共有してくれたり、共感して手を差し伸べてくれる人がいたり・・・

そんな時、人には感謝の心が生まれるのではないか、と思います。



「ありがとう」ということがどういうことか?

ワタシは病気になってこれがわかりました。


わかった、と言っても、それがどんな気持ちか?それを言葉で説明することは出来なさそうですが、なんというか、恍惚で暖かいこの気持ち・・・

不思議とこの気持ちが湧き上がってくると同時に、

「生きていてよかった」

と思えるんです。


感謝の気持ちが分かり、生きている実感が出来た、ということは人生においてとても大きな、大切な経験であると思います。

これが分かっただけでも、この数年の闘病生活に大きな価値があったと心から思えます。


いろんな人の、いろんな思いに支えられ、ワタシは「ありがとう」が言える。

色んな人がワタシの命を支えてくれているお蔭で生きていられる、そしてそれを実感できる。


皮肉だけど病気のお蔭で生きている実感が湧いてきます。



この記念すべき!?ハロウィンのこの日、記念すべき!?244記事目(なんの記念でも無いが記念は多い方が良い、人生の栞は必要。笑。)にて、改めて書いとこうと思い記事にしました。


みなさん、ありがとう。


ワタシはこれからもずっと「ありがとう」と沢山の人に言うために生き残りたいと思います。




おわり
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Vol.122 やめたら「死ぬ」だけだからさっ

うん、君よりワタシは人間的に強いと思うよ?


よく言われるんですよ、闘病していると。

「すごいね~! 強いね! 信じられないわ! ホント、さすがだわ!」

闘病している他の癌の方、どうです?しょっちゅう言われませんか?



別に・・・


仕方なく闘病してるだけなんだよ、ボケっ!

お前だって俺と同じ病気したら「強く」なれるんだよ?自動的に?

とは言いませんよ?もちろん。

ワタシは優しい・・・

そんな言葉をもらったら、「そんなことないよ、、、でもありがとう」と言うのです。


命に関わる病気をしないと分からないことが当然あるし、それをどうしても分かって欲しいとは思わないし、分かってくれない人を攻め立てるつもりは無い。


特にまだ若い、ワタシと同世代の人は基本的に病気とは無縁ですから、ワタシの生活は多分テレビの中の世界と同等だと思われます。

余命1カ月の花嫁、あ~、すげ~感動した、泣いた、

キャンディーズのスーちゃん、乳がんで死んだ・・・感動した、泣いた、


いいんですよ、それで。


ひねくれた見方をあえてここではしますが、

「悲劇の主人公」の最大の役割は、見ている人が自分と比較し、「自分の幸せを」実感できることです。

つまり、「感動」出来るのです。

※上に挙げた2人が果たして「悲劇の」主人公かどうかの議論は置いといて、一般的に「若くして末期がん=悲劇」という社会通念が確立していることは自明なのでこう書きます。っていうか、余命一カ月の花嫁の主人公とスーちゃんの年齢もかなり離れていますので、二人を若者とくくることすら議論ですけど。


いいんです、それで。

生き死には、まだリアルじゃないんです、若者にとって。だから感動物語で終わっちゃうんです。


たとえば、ワタシを悲劇の主人公に見立てて頂き、ああ、病気じゃなくて良かったわ、と、ご自分の幸せを実感して頂くのは全然構いません。

いや、ホント構いませんし、どうにも思いませんし。

感動するなり、何かに「気付く」なり、ワタシから学ぶなり、どうにでもワタシを利用してくらはい、って感じでありますね、今のところ。


病気になって他の人(いわゆる健康な人ね)や、社会との関わりにおいては、実にテツガクさせられる機会が多く、これはまた今回だけではなく、じっくり、しっかり、時間と手間をかけて、ワタシの頭も整理しながらこのブログにも書きたいと思っています。


ただ、ただ、ですよ?

今の段階で、今の所ですよ?

わかって欲しいことをあえておせっかいで「一つ」だけ挙げてみます。

(いや、正確に言うと、分かってた方が多分いいよ!、という程度、別に他の人を「教育」したり「コーチング」したりする気はさらさら無いし、どうしてもこれを伝えたい、ということでも無い)


それに至るまず前提としてですが、

「命がけで闘病している人は、健康な人より相対的に強い」と断言します、ワタシは。

つまり、ワタシに冒頭のようなことを言った人は「正しい」のです。


絶対的な「人間としての強さ」は定義せず曖昧にしておきます。

おそらく誰もが思う人間としての「強さ」はなんとなく共通することが多いと思いますから、これで伝わると思っています。


それは何故か?、

冒頭の話に関連するのですが、

「強いから闘病が出来ているのではなくて、闘病が強くしてくれるから」です。

ここだけは多分、わかっといてもらった方がいいかもしれませんね、健康な方々には。



「真剣に何かに取り組む」

と当然、強くなるってことです。


闘病だけではなく、どんなことでもそうじゃないでしょうか?

勉強でも、仕事でも、です。

勉強を頑張れば、勉強が強くなるだけじゃなくて、人間としての総合力も強くなるでしょう。

人に優しくもなれます。


ワタシも過去に、何かに取り組み、自分を追い込めば追い込む程、逆に充実感が得られ、心が安定し、人に優しくなれる感覚を得られたことは何度もあります。

逆にいつもカリカリ、イライラしている時は逆ですね。

自分の人生が上手くいっていないのです。


では、闘病は、人を強くする程の真剣勝負なのでしょうか?

いや、

そんなレベルの話では無いです。


真剣勝負!!

絶対に負けられない闘いがそこにある!

いいんです!!

むむっ!

ハ~フナ~・・・マイクuuuuu!!

くう~~!!

負けたらワールドカップ、出れない!


・・・・・・・・・・・・・・・・

そんなレベルではなく、

負けたら死罪、なんですよ。


つまり、

「絶対に負けられない闘い」どころか、

「勝つまでやめることを許されないとても恐ろしい闘い」なんだ、闘病は。


そりゃ強くなるってもんです。

だから、余命一カ月の花嫁のあの子も、スーちゃんも、こないだ亡くなられた皇室の方も、結局亡くなってはしまったのですが、お亡くなりになる直前は「めちゃくちゃ、果てしない程人間として強かった」と思います。


まあ、とにかく、

今健康な人に生き死にを語っても伝わりませんから、ワタシが今のところお伝え出来ればと思っていることは、

「真剣に何かに取り組むと見えてくる世界があって、それがあなたを強くしてくれるよ。」

という、実にフツウ~な、どこぞかの自己啓発書にそんなもん書いてあんだろう、ってこと。







おわり

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Vol.91 母の日と父の日の扱いの差


ありがとうね・・・


今日はあいにくの空模様ですね。

なんか肌寒い気が・・・カラダも少しダルい気が・・・

まぁ大人しくしましょう。


こないだの日曜日は母の日でしたね。


毎年、ジョカノと一緒に、それぞれの母へ花を送っていましたが、今年は入院しているもんで動けません・・・

去年は紫陽花をあげたかなぁ??


ジョカノにお願いし、またジョカノ自身も気を利かしてくれて、ワタシの母へ花とプレゼントの洋服を、二人から、ということで用意してくれました。

写メ取っとくの忘れましたが、母も喜んでくれました。


良かった、良かった。



ワタシのここ数年の闘病の歴史は、そのまま母の闘病の歴史でもありますね。。。

言葉では書き足りないくらい、沢山心配を、辛い思いをさせてますし、その分、沢山感謝をしております。



ありがとうね。



母より先に死ぬこと、

これは絶対に避けねばなりません。


母のためにも、

楽しく生きなきゃですね。



頑張るぞーーー!!!



あ、父にも同じだけ感謝しているんですよ? 笑。


でも、世の中的にも、我が家もそうですけど、なんか、父の日の扱い、って軽いですよね、、、笑。


ワタシもいつか父になって、軽く扱われる日がくるんですかね。。。

世のお父さん達、頑張れ〜!


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