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ワタシはカラダをテツガクする

病気が集まってくるカラダを自慢している。 生きてる以上テツガクするしかないね。めんどくさいけどね。

Vol.17 過去の扉(9)2009年5月③ 「現実逃避してもよい」

・・・・え、延命ぇ・・・・



最近、この過去の扉シリーズの為、いろいろ思い出したり、病院からもらった医師との面談メモなどの資料をひっくり返して回想をしています。

当時の感情が呼び起こされ、センチメンタルになったり、「よく耐えて来たよな~」とか、

「もっとああした方がよかった~」とか、いろいろ反省をしたりしています。


過去より、今! 今なんだ今!!

と、肝に銘じて、いたずらに過去に浸らないことをモットーに過ごしていますが、結局人生というもの、瞬間瞬間の集合ではなく、「過去」と「今」と「未来」の切れ目無い繋がりですから、今における自分の何らかの価値判断の基準は、「過去」を参考にするしかありませんし、「未来」を組み立てる為には「過去」も大いに利用しなければなりません。

そういった意味では自分の財産となっているような経験(=過去)を棚卸して、あらためて自分を整理している今この時間は、「今」および「未来」の自分にとって、とても良い時間になっていると感じます。このブログを始めた理由の一つでもあります。

これはある程度時間が経っている為、冷静にこれだけ書ける、ということもありますね。

本当にこのブログを決意したのは良いタイミングだったと思います。もっと先になるとどんどん忘れていくでしょうから。

正直今も思い出せないこと結構ありますが、落着いて当時を振り返る気持ちの余裕も出来た今はタイミングとして絶妙でした。


前回までにワタシはとんとん拍子で「ガンであること」そして末期と言える「ステージ4であること」を言い渡され、初回の抗がん剤投与まで2週間、という時期を過ごしていましたが、まさに、実はこの時期どんな気持ちで過ごしていたか、何をしていたか、あまり覚えていないのです・・・・日記を書いておけばよかったです。


なんとなく、なのですが、大きくワタシの心を支配していた不安の中に、診断が確定し治療方法が決まったということから、僅かながらも「期待」という光を感じていた記憶がかすかにあります。

がしかし、この時期はワタシは「現実逃避」をしていました。フワフワしていたのでしょう。

だから、あまりこの時期のはっきりとした記憶が無いのかもしれません。


それについては理由が思いつきます。


Y医師から前回、抗がん剤治療を言い渡された時に、Y医師は、

「抗がん剤をやって少しでも延命を図っていく、というのが・・・一般的になりまして・・・」

はっきりとY医師の言葉は覚えていないのですが、「延命」という言葉を使っていたことは鮮明に覚えています。


「ああ、とりあえず、死ぬ、ということ前提なのね~」


と感じたものです。


これは流石に受け入れられません。。。まだ28歳なのに延命期間に突入です。。。



現実逃避したワタシはこの時期、自分で情報収集をほとんどしていなかったと思います。

良くない情報によってさらに心乱れるのを本能的に避けるためでしょう。


抗がん剤をやることが決まったのだから、とりあえずそれをやるんだ、何も考えずにやるんだ、助かるんだ、助かる、と盲目的に目の前の楽な道にすがった、という感じでしょうか。


今となっては反省していますが、もっとこの時点で情報集めるべきでした。

一時は背を向けて逃げ出し、現実逃避をしたとしても、また歯を食いしばって振り返り、もっと現実と向き合う努力をするべきでした。

いや、そうしていても結果は「大きくは」変わらなかったでしょうが、もっと普段の生活でも出来ることなどあったと思うのです。


また、情報を集めて、自分の気持ちなりを少しでも整理しておけば、それをベースにY医師からももっと情報を引き出せたかもしれませんし、もしかするともっと他の選択肢もあったかもしれないのです。


まあそれも「過去」の話ですから、「後悔」してもしょうがありません。

でも「反省」しています。


なので、以後は可能な限り早く現実と向き合う努力を心がけるようにします。


今日、これを書いていますが、明日は今現在やっている抗がん剤の最終4クール目の入院日です。


そして明日、その後の方針について病院側から提案があります。


その提案に対してはワタシはすぐさま冷静に検討を開始して、判断を下し、現実を受け入れて生きていかなければなりません。



話をこの2009年の5月に戻しますと、そんなこんなで、ワタシは診断が確定し、目指すべき方向性が確かになったことで、かすかな期待を抱きながらも、ステージ4の幻想や、「延命」というフレーズの恐怖に慄き、基本的には現実から目を背けたまま6月の抗がん剤治療に突入してしまうのでした。



現実逃避・・・・・・

心を守る為にも、時にはそれもやむを得ないと思います。

ワタシは今でも逃げたくなる時が多々あります。

「よし、とりあえず今日は飲んで寝よう!」と、酒に逃げて済ませることもします。


ただ、ず~っとそうしていても状況は変わりません。現実を受け止めねばなりません。


いかなる時でも現実をがっちり、全て受け止めてしまえる、風が吹いてもビクともしない樹齢数千年の大木のような「強さ」を身につけることは難しいと思います。

「現実」という風が吹いてきた時に、時にはその風をうまくいなしながら、また色々な方向に体を曲げたり、しなったり、時には作戦会議の為一旦後ろ向きに逃げたり・・・・・そうしてもいいと思っています。


やはり自分の「自然な」感情は大事にしたいと思っています。


ポキっと折れないことが「肝腎」だと思うのです。


ワタシはそういった「しなやかな木」みたいな人物を目指していきたいと思っています。


このことがこの時期から学んだ反省ですね。


つづく

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Vol.13 過去の扉(8)2009年5月② 「4の幻想と母のつぶやき」

神様にご褒美もらえるような人生でもなかったよ


5月もGWが過ぎ、すっかり初夏の気配を感じる頃となっていました。

いよいよ確定診断を受ける日になりました。


父母と3人でA病院で待ち合わせ、Y医師の外来を訪ねます。


ここで一つ事件が起きました。なんとY医師の診察室に入るいと開口一番、

Y医師「すいません・・・・実は・・・・」

ワタシは身構えました。

まさかこの前知らされたいくつかの病気ではないことが判明し、これは世紀の誤診によって腫瘍は良性だった、とか、もしかすると相当やっかいな腫瘍だ、とか何か突飛なことを言われるのでは、と一瞬思いました。

Y医師「先日入院で実施してもらった生検にて採取した腫瘍の細胞の検査結果がまだ出て無くて・・・」

とのこと。

困りました。

一応、ワタシも仕事を、父も仕事を、母もパートを調整してこうして来ているのです。


父が大きく息を吐き、あきれ顔で顔色を変え、今にもY医師に喰ってかかりそうな空気を出したので、その険悪な空気を察しワタシがすぐに、

「あ、そうですか」と軽く言いました。

ワタシの心境としては、なんだか死刑宣告が先延ばしになったような気もしたので、少し気が楽になってしまったのです。


でもこのA病院の対応はいけませんね。

患者も忙しいのです。

外来にいざ来てしまう前に、前の日でも直前でも、ワタシにそういうことなので外来を伸ばして、という調整は出来たはずです。

医師も多忙を極めているということは理解していますが。

とまあここでY医師とケンカは出来ません。この後命を預けるわけですから。


Y医師は折角なのでなんか話しておきたいこと、聞いておきたいことがあれば何でも、とのことでした。

しかし、確定診断もまだの段階で、ワタシとしても可能性の話でいろいろ聞いてしまって、それが悪い方向で気持ちに作用することが嫌だったので、大したことは聞きませんでした。

おそらく、ネットに出ている一般的な情報をいくつかおさらいするように聞いたと思いますが、この日何を話したかもあんま覚えていません。

記憶にあまり無い、ということはそういうことなのでしょう。


とりあえず、ワタシはこの日の緊張感から解放された安堵のもとにホッと帰宅するのでした。

無論父は終始プリプリしてた記憶がありますが・・・



さあ、仕切り直して翌週、ワタシは母親とともに再びA病院Y医師の外来を訪ねます。
(確か結局父は仕事を休めなかったと記憶してます。無理も無いです。その前の週にも一日休んでいるのですから。)


Y医師の診察室に入り、Y医師はメモを書きながら淡々と説明を始めます。



Y医師「病理診断の結果ですが・・・やはり胸腺腫でした・・・」



想定内です。




Y医師「それで・・・・正岡の病期4のAになります・・・・」



想定内!?、いや、ちょっとまってよ・・・・・









ワタシ「|||||||||||||||||||凹[◎凸◎;]凹|||||||||||||||||||」








ワタシ「ス、ス、ス・・・・・ス、ステージ・・・・4・・・・・ですか・・・・・・2・・・・位じゃないのですか?」


Y医師「はい・・・・胸の膜、これは正確に言うと肺の中ではなく、周りなのですが、ここに播種してまして・・・・・」


ワタシ「はあ・・・・・・この前自分でネットで見たんですけど、5年生存率3割とか・・・・・・・・・・・・・・・」


Y医師「そうですね・・・数字のことは何とも言えません。ただ、肺がんのステージ4と比べると桁違いの数字ですから、これで直ちに身辺整理をして、とかそういうレベルでは無いことをご理解してください・・・・」


ワタシ「はあ・・・・・・・・・・」


Y医師「会社にもただ、胸腺腫という病気になった、少し休む、くらいに、あまり重く言わない方がいいと思います・・・」


ワタシ「5年生存率3割・・・・・それはどうなんすかね~?・・・・・・・・・・・ワタシはどうなんでしょうかね~?」


ワタシ「ワタシはこの先50歳とか60歳とか、それを迎えられるのでしょうか・・・・・・」


ココの所ずっと不安に思っていた核心の質問をぶつけてみます。


Y医師「先ほども言いました通り、悪性度は一般的なガンのイメージよりは幾分軽いですし、すぐにどうにかなっちゃう、というレベルではありませんから。もちろん50歳とか60歳とかになってどうなのか、はなんとも言えないですね・・・」


想像通りの回答です。

しょうがないです。

Y医師に20年後のワタシの命の保証は出来ません。


Y医師はこういった告知はお手の物です。

こちらの反応を見ながら、気を遣いながら、しかし必要なことを淡々と説明します。


Y医師「・・・・・・抗がん剤治療をしたいと思うのですが・・・・・」


ワタシ「・・・・・・・・・・・・・・・お願いします・・・・・・・・・・・」



ステージ2と踏んでいたワタシはまさかの飛び級によってこの時点で「末期がん」であることとなりました。

胸腺腫は病理診断上は、「胸腺がん」と区別され、病名に「がん」とはつきません。

ただし、ワタシのようなステージ4の浸潤性のものは、一般的なガンのステージ4と同じようにすでに他の部分に転移(播種)していますし「腫瘍=がん」、みたいなことですし、抗「がん」剤治療をするのですから、ワタシの心はこの時点で「末期ガンだ・・・」ということになりました・・・

一般的にもそう解釈されて問題無いと思います。


今となってはこのステージの診断というのは、すでにある事実に対しての後付けの話ですから、あまりこれに心奪われる必要性は無いと思ってはいるのですが、この時点でのワタシの気持ちの上でのステージ2と4の違いというのは当然天と地の差があります。

「ステージ4=末期=近いうちに死ぬ」というこのステージ4の「4」という数字の、あまりに強烈な幻想がこの先ワタシを支配します。


ここで治療方法をいったん保留して悩んでも仕方が無いですし、この時ほぼ思考フリーズしていました。


ガンの世界ではセカンドオピニオンという概念がありますが、A病院は国内では有名な権威ある病院とされています。

ワタシはとりあえずはY医師の言うコトだけを聞いて、あまり何も考えずに治療を始めてしまおう、と思ったのです。


早く次のステップに行きたい、という強い気持ちもありましたし、もう不安に苛まれるのも嫌でした。

ワタシはおそらく自分の心を守る防御本能により、恐怖心を避け、淡々と前に進もうとしました。



この日は5月も半ばにさしかかっていました。

ワタシの仕事の調整と、病院のベッドの空き具合との兼ね合いのバランスを取って、切り良く6月の頭から一旦入院して初回の抗がん剤をしましょう、となりました。

入院の予約をして帰ります。



参りました・・・28歳末期がん男子です・・・・


これからどうなるでしょうか・・・


この日のワタシの心ですが、不思議とあのY病院でのガン宣告の時よりは大分落ち着いていました。


想定より厳しいステージ4ということでしたが、状況がはっきり判明した、ということで不安や恐怖の正体が見えたからだと思います。

まったく不安と恐怖の中身がわからなく動転したあの日とは違いました。


「ガンになった」という事実よりも、「ステージ2が4だった」という事実の方が、ワタシには幾分マシであった、ということです。



と言っても「末期がん」という現実は厳しいものです。




肩を落とし、母と2人バスに乗ります。


「・・・神様からバチの当たるようなコトでもしたかね~・・・」


どのタイミングだったか忘れましたが、ふと、母がワタシに向かって言うでもなく、ぼんやりつぶやいたのを鮮明にワタシは記憶しています。

これまでの闘病生活の中で最も印象的だった言葉と言っても過言ではないかもです。




ワタシが思うに、母は必死で自分を責めています。


ワタシが病気になってから、今に至るまで、母は必死に支えてくれています。

病院にワタシが入院している時はほぼ毎日自分のパートが終わってから来てくれます。

いつも洗濯物を抱えて病院に来てくれます。

たまに休んで欲しいと言っても来るので、ワタシは「一人になりたいから来ないで」とまで言わないと必ず来ます。


生意気にグルメなワタシが病院の食事を好まない為、いつもデパ地下で美味しいオカズを買ってきてくれたり、自分で作って来てくれたりします。


家にいればワタシに食事を用意してくれています。

一時はかなり厳しい食事療法を徹底した為、ワタシのウルサイ注文に文句ひとつ言わず付き合ってくれました。


ワタシが野菜ジュースを飲む毎朝、大量の野菜を冷たい水で洗って切ってくれます。


時にケンカをしたことはもちろんありますが、それでもメゲずにワタシに付き合ってくれます。


母は自分を責めています。ワタシは母のお腹から出てきました。

「私が息子を丈夫に産めなかったから息子が苦しんでいる」と思っているに違いありません。

ワタシは親になった経験はありませんが、きっとそれが母親というものと思うのです。

病気の子供を抱える世のお母様方どうでしょうか??


世の中の31歳と言えば、独立して結婚して子供が居る人もいます。

ワタシの同級生でももちろんそんな「一般的な当たり前の暮らし」をしている人間は数多くいます。


ワタシは実家で親に甘えています。

だらしないと人は言うでしょう。

今、この瞬間、ワタシは仕事もせずにブログを書いています。

母は今ワタシの晩御飯を作ってくれています。


でも母親にとって息子たるワタシの存在は全てなんです。

ワタシはそんな母を生涯大切にします。

マザコンだと人に笑われようがBe Quiet!!です。


ワタシはもちろん、もういい年の親に体力的にも負担をかけたくないし、気も使わせたくありません。

父親と母親にはのんびり老後を過ごしてもらいたいと思っています。


家を出て、自分一人の責任でもって一人暮らしをすることは今の病状なら可能です。

お金もありますから今からでも可能です。

実際この後書きますが抗がん剤治療から手術まではワタシは一人で暮らし、仕事も続けていました。


でもワタシが実家を出れば親は心配でしょう。

実際一人で暮らして闘病してた時はかなり心配していたようです。家族は側に居た方がいいのです。


親は甘えて欲しいと思っているはずです。ワタシが甘えてくれることが、母の生き甲斐のはずなのです。

だからワタシは親と一緒に居ることを選択しました。

ワタシの人生は両親の人生でもあるのです。

ワタシのカラダは、両親のモノでもあるのです。

だからこそワタシは、親を大事にしながら「ワタシの人生」を「しっかり生きる」しかありません。ワタシに出来る孝行はそれです。

親と一緒に居る、という選択をした「ワタシの人生」を後悔無きよう「しっかり生きる」のです。

これが「両親の為に生きる」ということです。

親より長生きして、親を看取るという目的は果たさないとなりません。




この日、すっかり肩を落とした母とワタシは、病院からの帰りはホントぼんやりしていたのを記憶しています。


ワタシもぼんやりしながら母のつぶやきに回答するように心の中でつぶやいたのを記憶しています。



「・・・バチの当たる人生では無かったけど、かと言ってご褒美もらえるような人生でもなかったよ・・・」


つづく

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Vol.12 過去の扉(7)2009年5月①「現実を過小評価する」

まぁ、最悪ステージ2だろっ


Y病院でのガン告知とA病院での初診から、針生検の入院を経て、次回GW明けのY医師の外来までは幾分か時間がありました。

例の人生最大の衝撃の2日間を過ごしましたが、数日も経てば少しづつ落ち着きを取り戻します。


人生最大の不安に陥ったとしても時間が経つにつれて徐々に落ち着いてくるものです。

本当に時間というのは凄まじい威力をもっています。

また、人間の脳みそは、その先も健康的に生きるために、不安や恐怖を感じたとしても、時間をかけてそれを自動的に消し去って行く「ワタシの頭の中のケシゴム機能」が備わっています。


とは言っても完全に不安が消える訳はありません。

事態は何も変わってはいません。

憂鬱です。怖いです。

この現実がワタシに対してこれからどんな攻撃や、武器や、魔法を使ってくるか分かりません。


28歳の若さで「がん」と言われ、納得のいかない無念さもあります。

私は酒こそ好んで飲みますし、食生活は当時は褒められたものでは無かったですが、学生のうちにタバコは辞めたし、体重も太り過ぎないようには気を付けていました。

野菜や魚や果物もたまには食べていました。(今はすっかり草食男子)

ジムに行くのも好きでした。


何かの間違いであってくれ、という目をそむけたい気持ちも当然あります。


がしかし、これが夢である確率はおそらく6億円当たる確率より低そうなので、ワタシは置かれた現実を受け入れるよう、頑張らなければなりませんでした。

そう、あの心臓の横に写る例の腫瘍の塊と同じ色をしてワタシの心を支配している、このドロドロとしたグレーの不安の中身を少しでも解析して、もっと気持ちを落ち着かせたい所です。

今の段階で出来る限り現実の攻撃に耐えうる防御力をワタシは養うなり、武器を探しておきたいところです。



心に問い掛け、ワタシが対処すべき不安を細かく分けてみると、当然それは、


①治るのか?治らないのか?・死ぬのか?・死なないのか?


②死ぬとしたら、いつなのか?


③死ぬとしたら、死ぬまでの生活はどうなるか?仕事とか?ワタシの夢は?
 (今でいうところのQOLですかね、当時はもちろんそんな言葉は知りません)


と、いったようなものになりました。ひたすら、「死」をイメージせざるを得ませんでした。


「ガン=死」というのがおおかた一般人のイメージであります。

昔は末期になって初めてガンと分かるケースがほとんどとのことでしたから、その時代のイメージが現代にまで受け継がれているのは、いた仕方ないですね。

今の医療に当てはめれば、それは早合点にすぎない、ということになるのでしょうが、ワタシは「がん=死」と捉えるのは決して悪いことではない、と考えています。

このテーマについてもワタシ自身思うテツガクがありますので、これもまた別枠でネッコリ後日書きます。



さあ、A病院のY医師によると、

第一回・・・選択希望選手・・・読売・・・「胸腺腫」・・・とのことなので、家のPCでググり、ウィキり、検索パーティーです。


パーティーですからビールなど飲みながらした記憶があります。

酒の勢いを借りなければ調べられなったのでしょう。

怖かったんでしょう。

ワタシもカワイイものです。


見慣れない言葉に戸惑いながらもお勉強です。

胸腺腫がなんたるか、ご興味のある方はググッたりウィキったりして頂ければ良いのですが、とりあえずわかったことは、

◆レアな腫瘍である。したがって情報少ない
 (これはかなり困りものです。今でも悩みですね。もっと胸腺腫の人とネットワークが広がればいいですが。)

◆肺がんや他のがんに比べると悪性度は低いが、「胸腺がん」と区別される悪性度の強いものもある。

◆進行はゆるやかなタイプなので、肺がんなどに比べると5年生存率は良好、一番よろしくない不良の4期でも3~4割、2期までならかなり予後良好

◆ただし、再発しやすい、サイトによっては必ず再発する、などと書いてある。(必ず、なんてこの世にあるか?)

◆原因は不明
 (まあ病気なんて大概原因不明だろう、とこの当時のワタシも理解していました。)

◆「重症筋無力症」という自己免疫疾患を併発している人が3割いるらしく、これが胸腺腫を調べ上げると、どこのサイトでもフューチャーされており、切っても切れない関係にある病気のようだ。(まさかこれになるとは・・・)

◆30代超えた女性に多い疾患 (もともと女々しいワタシでしたが・・・)

◆治療方法は、手術、放射線、抗がん剤、とこれは当時無知なワタシでもこの癌の標準治療の3パターンくらいは知っていました。

◆もっとリアルな、ブログなどを書いているような人は居ることは居るが、あまり参考になるようなものは無く、この時はまだ時間をかけてそれを探すこともしませんでした。
 (まさかワタシがブログなんて書くようになるとは・・・)

◆結局よ~わからん。

というようなことでした。


さあ、ここまで得た情報を使って、上記で挙げたワタシの不安に対処してみます。


①治るのか?治らないのか?・死ぬのか?・死なないのか?

これについては、この時のワタシは5年生存率で判断するしかありませんでした。

ステージが若ければ生存率はかなり高い腫瘍です。


ワタシは体も丈夫だと思ってましたし、体力にも自信がある時期でしたから、5年生存率が8割もあれば、まずワタシは2割にはならないだろう、と判断しました。


根拠なき自信ですが、この判断は今考えても概ね正解でしょう。

この統計にはもちろん、すでに体力が無く、他の病気も経験している高齢の方なども交じっているでしょうから。

この時期からもう3年経っています。

あと2年ではまだワタシは死にそうにないです。

なので2割に入るでしょう。


Y医師は診察の時に、胸の絵を書いてくれて、腫瘍のある場所を簡単に説明するメモをワタシに渡しました。

心臓の横の大元の腫瘍と、その他、胸の膜に2か所、小さめの腫瘍がある、とメモをもとに説明されました。

胸腺腫は、胸の膜に「播種」していると、ステージ4Aとなり、予後不良ということになります。

それはこの時点でもワタシはネットで調べて認識することが出来ました。


実はY医師の初診の段階では、この胸の膜にある腫瘍について、「播種」との説明は受けてなく、メモにも、「胸の膜にも広がっている」くらいにしか書いていなかったので、ワタシもこれが「胸膜播種」である、とは思わなかったのです。

大元の腫瘍とともに、その胸の膜の腫瘍もちょいちょいっと取れるものだ、と思ったのです。


ということで、ワタシは具体的な根拠は分かりまんが、悪くてもステージ2とかだろう、とタカをくくったのです。

ステージ2であれば、上記のごとく、ワタシは「死なない」という判断になります。


当時のワタシは、ステージというものは、「あらかじめ統計された病状を、機械的に当てはめて客観的に判断する」のではなく、

「なんとなくそれを参考に医者が主観的に決めるものだ、そしてそれは客観的事実にまで昇華するのだ」という、かなり身勝手な勘違いをしていました。

がん入門者には仕方ないですよね・・・


治るか、治らないか、についてですが、おそらく手術して取るのかな?と思いましたので、治ると思いましたし、確かに再発しやすい、とは書いてありましたが、この時はまあ大丈夫だろう、と、再発した時はその時までだ、と、目先の安心をとにかく優先してその先の再発などは考えないようにしました。

といっても、ステージが、3とか4、て言われるのが不安と言えば不安です。


でも結局そうだったとしても、そうなるとワタシは「死ぬかも」と思わざるを得ないので、この時点では考えたくは無かったのです。

とりあえずは、治るだろう、と思い込みました。


万一、そうだったとしても、それはそう言われた時に嫌でも考えざるを得ないので、とりあえずはこの時は考えないこととしました。


次に、

②死ぬとしたら、いつなのか?


ですが、一応、この時点では死なない、としたのでこれは考えないことにしました。


次は

③死ぬとしたら、死ぬまでの生活はどうなるか?仕事とか?ワタシの夢は?

一応死なない、としましたし、生活も変わらずに出来るだろうと思いました。

後遺症とかは書いてありませんし、合併症の重症筋無力症などにはなる訳がないだろう、と思ってました。


これの確率は3割でしたから、5年生存率8割に入るのと同じような理由でワタシは当たり前のように7割に入れるだろう、と判断しました。


再発は気をつけなきゃいけないけど、原因不明なのだから、気をつけ方はわかりません。

とりあえず、また普通の1か月前のワタシの暮らしを取り戻せると当たり前のように思っていました。


仕事は当分抜けることになるでしょう。

それはそれで厄介な作業でした。

幸い、当時の職場はピリピリした殺伐とした空気では無かったので、話易い雰囲気ではありました。


とりあえず今の段階で想定されること(結構厄介な病気っぽくて、数か月とか休まなければいけないかも、等)は早めに会社に報告はしておきました。

考えられる病名はまだ言っていません。


会社は薄々「がん」であることは気付いていましたが、だからと言ってすぐにワタシを解雇するようなことはしません。

労働組合などもありますし。


その意味では、これは今に至るまでですが、会社にはとても感謝をしています。

病気と会社の関係についてはまた改めて書きます。


5月の確定診断、治療方針が出たらまた正式に会社と相談ですね。

生活が変わらない以上、ワタシの夢も実現に向けて変わらずに頑張らなければいけません。




ということで、目下気になるのはワタシはステージいくつなのか?ということでした。

「まあステージ2くらいで、概ね大丈夫だろう」というのがワタシが出した結論です。

今後の治療やスケジュールが流動的なこの時期の状態は何とも不安定で気持ち悪い状態でしたから、早く「ステージ2ですね」と医者に言ってもらって、目標を定めて、不安や恐怖から抜け出したい、という気持ちが強かったのですね。


ということで、この時点でワタシは、

「現実と闘う為の防御力を養う、武器を探す」

という作業にまではほど遠く、それよりもむしろ、

「現実の攻撃力を過小評価する」

という方向で、曖昧にタカをくくり、ワタシはとりあえずは自らの不安を少し減らし、ある程度の落ち着きを取り戻し5月GW明けの確定診断を待っていたのでした。


今になって思うのですが、結局この時点では、確定診断が出ておらず、基本的には何もしようがなかったですから、当時のワタシにしてはここまででも上出来だったと思っています。

何より当時は不安を少しでも減らし、通常の生活を維持することが何より大事でした。


それまでの2~3週間の間にX病院やY病院での検査やらが続いて職場に穴を開ける機会も増えていましたし、これからはもっとそうなるであろう為、仕事が出来るウチは出来るだけ片付けておかないといけない状況でした。


つづく

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Vol.11 過去の扉(6)2009年4月④「初入院・初気絶」

・・・おふっ Σ(T□T)


さて、過去の扉の向こうへの旅を再開して。


なかなか時が進みませんが、前回の記事で書いた通り、2009年4月の時期が最も気持ちが揺れ動いた時期でネタも一番豊富なのです。

これで2009年4月のネタは最後ですので、もうしばしお付き合いを。


Y病院でのあっさりガン告知と翌日のA病院での診察から数日経ち、動揺は続いていたものの、多少の落ち着きを取り戻したワタシは、4月末の針生検のための入院に備え、いつもの暮らしに戻っていました。

一つ、やっかいな作業をワタシはしなければなりませんでした。

会社への説明です。


もう単なる通院の繰り返しでは済まないだろう、ということになってはいましたから、ここは正直に、今の判明している事実と、今後の見通し、とりあえず月末に入院する旨、その結果で最終診断がGW明けには出るだろう、ということを隠さずに上司にまず報告します。

上司経由で人事部門にも共有を図ってもらいます。


会社に多くの配慮をしてもらうことになります。

職場の皆にも迷惑をかけることになります。

とりあえずは、ワタシは治療に専念せよ、と、仕事は可能な限り調整してもらうことになりました。


闘病の中で、仕事をいかにするか、というのは大問題です。

ワタシもご多分に漏れず、仕事との関わり合いは大いに悩んできました。

これについてはここでは割愛し、仕事と病気についてはまた別の機会にネッコリ書きたいと思います。


さて、4月も末になりGWに突入する週末に入院です。

一応、胸に針を刺すので、肺に穴が開いてしまう気胸などのトラブルが無いとは言えない為、大事を取って入院をする、とのことでした。


母親と一緒に午前中に受付をし、病室に入ります。

担当の看護師さんが諸々の説明をしてくれます。その看護師さんに、見習いとして看護学生が一人ついてきました。

どこの看護学生でどういった経緯でこの病院で研修しているのかよくわかりませんが、永作ヒロミに似ている、笑顔の可愛らしい女の子でした。

研修中の彼女が緊張した面持ちで少し頬を赤らめてワタシにオドオド近づいてきます。

「あら、かわいいわね~」なんてワタシが思ってると・・・


永作「研修してます永作です。今回のご入院なんですが・・・・」

と、さっき担当看護師から概ね言われたことをさらに詳しく説明する、みたいな感じでした。

最後に、

永作「なにかご不安なことはありますか・・・・」と、神妙な面持ちを一応作ってワタシに問いかけます。

不安と言えばすべてが不安ですが、この20歳そこそこの、ただの女子である、世間の世知辛さを何も知らないであろう、純粋な薄いピンクの塊のような永作がワタシのドロドロとしたグレーな不安を聞いて、何か出来る訳ではありません。

ワタシ「いや、大丈夫ですよ」とワタシは大人の笑顔で永作に返します。


永作「はい、また何かあったら言って下さいね。」と、ワタシがメンドクサイことを言い出さなくてよかった、という安堵の笑顔。


・・・患者も気を遣うのです・・・


この日に針生検をします。午後になると呼ばれて、現場のCT室に入りました。

CTの中にワタシが入って、同時に外科医が一人、CTに入っているワタシの胸に針を刺すのです。

CTを起動し、ワタシの画像を別室でモニターしている放射線技師と外科医が連携して、ワタシの胸にマジックで印をつけて、針を刺す位置を決めます。


いざ、胸に局所麻酔をして、針を刺します。


局所麻酔をしてますので、痛い、という感覚はないのですが、針(注射の針より大分太い)が胸にめり込んでくる感覚はあるのです。

これはたまりません。

ワタシは気分がどんどん悪くなり、体中から脂汗がしみてくるのがわかるほどの緊張に陥りました。

「早く終わってくれ~」と心の中で繰り返します。


外科医は中でモニタしている担当と連携しながら、「はい、採るよ~」と言ったかと思うと、針を何やらカチっとはじきました。


「・・・おふっ Σ(T□T) 」


これはおそらく腫瘍に針が到達したことをモニタでも確認したので、実際に組織を吸い取る音だったと思います。そのカチッと言う音と同時に、ワタシの胸に衝撃が走りました。

外科医 「はい、終わりました~」


このCT室の担当看護師はかなりのベテランさんで、もうおばあちゃんと言っていい位の人だったのを鮮明に覚えています。

その看護師さんは優しく、まるで孫をあやすかのように、ワタシに「はい、終わったからね~、ゆっくり立ち上がろうね~」といいます。


すると立ちあがろうとすると、


あれ、あれれ・・・ ∑(_□_;)ii


急に目の前が真っ暗になり、渦巻きのようになりました。


おばあちゃんの「大丈夫、どうしたの?大丈夫~」という声がどんどん遠くなります。


どうやらワタシは少しの間気絶したようです。

針が胸に刺さる感覚に耐えきれず、体がギブアップしたようです。


気がつくと、と言ってもすぐに正気になりましたが、CT室の前のソファーで、ホームレスのように寝かされていました。

横には例のおばあちゃんがいて、「もう大丈夫だよ~、と言ってくれています。」


このおばあちゃんによると、結構ワタシのように針が刺さると、反射で血圧下がってこうなる人が多いそうです。注射で気分が悪くなる人と同じですね。

実際ワタシも気を失った際に、このおばあちゃんが血圧を測ったらしく、上が60くらい(確か!?)だったそうです。

怖や。


CT室の前のソファーで寝てたワタシのもとに、病棟から担当看護師と永作がストレッチャーで迎えにきました。

気を失ったということで、心配して病室から母もきました。

母は「倒れちゃったの~」なんて言ってます。


まあそんな珍プレーも起こしながら、なんとか目的の針生検も終えて、夕方になると母親は帰って行きます。

この日の夕飯は確かフライだったか、トンカツだったか、忘れましたが、意外に病院もまともな食事が出るんだな~、などと思った記憶があります。

今となってはこのA病院の食事も、この先登場するB病院の食事も嫌で嫌で仕方ないのですが。


こうして初めての病院の夜は更けていきます。

ワタシの記憶が確かなら、おそらく病院という所に泊まるのは産まれた時以来28年振りです。

まるで部活の合宿のような気分でしたか。


明けてレントゲンを撮り、一通りの診察を病棟の医師にしてもらいます。

問題無いとのことで退院です。


GW明けに再びY医師の外来を訪ね、そこで確定診断を受けることになります。


つづく

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Vol.9 過去の扉(5)2009年4月③「木漏れ日溢れるバスの中で」

父母唯其疾之憂


実家にてビールと涙にくれた夜が明けて、父と母とワタシで電車とバスに乗り継ぎ、これから今に至るまで、様々なドラマの舞台となることとなるA病院へ向かいます。


物々しい病院です。

どんよりしたイメージがありました。


もちろんそれはワタシの気分がそうさせていたのでありますが、X病院、Y病院よりもはるかに大きいA病院は、まるでその後のワタシの運命をあざ笑うかのように不気味な佇まいをしておりました。

ワタシが描いていた未来へのキラキラした期待や夢といったものを、まるでその病院が吸いこんでしまいそうな雰囲気です。

恐ろしいです。


今でもこの病院に行くことがありますが、相変わらずこの病院の前に立つと、この日のこの感情が蘇ってきます。


受付にて紹介状や、Y病院にて撮影したレントゲンやCTの各フィルムを渡します。

これが結構なボリュームでした。

今はCDロムに焼いてしまうのが普通ですが、この時は何故かフィルムを大量にワタシは持参しました。

Y病院がアナログだったのでしょうか?


必要な手続きを済ませ、呼吸器科の外来待合室で親子3人並んで座って待ちます。


患者の多さもX病院、Y病院とは比べ物になりません。

しかし患者のみなさんの顔色はX病院、Y病院と何ら変わりありません。

こんな患者をたくさん抱えて果たして一人一人をしっかり診れるのか?とこれほど大きい病院に初めて来たワタシは一抹の不安を抱きましたが、それを今気にしても仕方ありません。


次々と患者がフルネームで診察室へ導かれて行きます。

各医師が待ち受ける診察室の多さもX病院、Y病院とはけた違いです。


ほどなくして男性の声がスピーカーから聞こえます。

「●●さん(ワタシの苗字)、●●●●さん(ワタシのフルネーム)、●番へどうぞ~」

この病院は、患者に分かり易く苗字を呼んで、続けてフルネームを呼ぶ、というパターンの病院です。



さあ、死刑台にのぼる恐怖です。


親子3人、意を決して診察室に入ると、待ち受けていたのは、今現在もお世話になっているA病院の呼吸器内科Y医師です。

「あ、私はYと申します。」と名札を見せて挨拶をしてくれているその医師は想像より若く、30代後半くらいの男性医師でした。

正直ワタシが対面する医者はこの件で言うとこれで3人目ですが、X病院M医師、Y病院S医師よりも一見頼りない感じではありました。

しかし、話は丁寧で、さすが数多くのガン患者を対応して、訓練もされているのだな、と言った感じです。

こちらの不安も察したように分かり易く説明をします。


Y医師はこれまでの経緯をワタシとおさらいしながら、手際よく紙にメモを書いて説明をしてくれます。


心臓の隣にある例の不気味な塊がある場所は、肺でも心臓でもなく、「縦隔(ジュウカク)」と呼ばれる部位とのことで、ここに腫瘍が出来ている、とのことでした。それが、種をとばして、肺の外側の膜(胸膜)というところに播種している、とのことです。

結局、先だっての健康診断では、この播種をした胸の膜の部分の腫瘍がレントゲンに写り、異常と判断されたのだろう、とのことです。


そんでもって、真犯人の心臓の横の塊が何故こんなにも大きくなるまでわからなかったか、というと、これは心臓と重なった位置にあるため、正面からのレントゲンでは丁度心臓と重なって写ってしまうため、わからないことが多い、とのことでした。

Y医師によると、これほど大きいのだから、おそらく数年前からスクスク育っていた可能性は十分にあるだろう、とのことです。


会社の健康診断では毎年胸のレントゲンを撮ってはいましたが、普通の内科のレベルではこれを心臓ではなく、腫瘍と見抜くのは 「まず無理」 とのことでした。

仕方ないですね。


数年前に人間ドッグにでも言ってCTを撮っていたらまた違う人生だったでしょうが、それはタラ・レバでしかありません。

20代半ばで人間ドッグにいくのは健康オタクです。


そして今のところ考えられる病気として、Y医師は以下をピックアップしました。

○胸腺腫(すでにこの時点でY医師はおそらくこれだろう、とは言ってました。)

○胚細胞腫瘍 

○精巣腫瘍

○リンパ腫

○肺がん   

見慣れない漢字ばかりでどれもよくわかりません・・・


そして、ワタシはどうしても気になる、こんな大きい腫瘍があるのに、何故ワタシは元気で痛みも無いのか?という疑問をY医師にぶつけました。

こういった腫瘍はほんとうに個性がバラバラで、人によってまったく違う、大分進んで大きくならないと痛みが出無いものもあるし、小さい段階でも痛んで骨に転移しちゃったりすることもあるので、という、当時のワタシにとってはまったく理解に苦しむ説明でした・・・


今に至るまでワタシはこの腫瘍が原因で痛かったり、何か生活の不自由を受けたことが無く、「この痛みなき病」はワタシを大いに惑わせることになります。

かなりこれもテツガク的話になるので、また別な機会にこの「痛みなき病」については書きます。


結局、実際に腫瘍組織を採取して病理にかけて、最終的に確定診断になるとのことです。


実際に胸の腫瘍に、外から針を刺して採取するとのことです。

少し恐ろしくなりました。

針生検と呼ばれるヤツですね。


その針生検は一泊二日で入院してやる、とのことで、人生初の入院が4月の末に決まりました。

4月の頭くらいから本格的に重病疑惑がもちあがり、動揺しはじめ、ここまでトントン拍子に話が進んでいます。


ワタシも心の準備が追いつかない感じでしたが、父と母にとっては昨日の今日の話です。

さぞ不安と動揺が大きかったでしょう。

入院の予約をしてこの日は帰ります。


あまりの展開の速さに、ワタシはもちろん、父と母も動揺していました。

不安で仕方ありません。


現実を受け入れる、という心境にはほど遠いものだったと思います。

嘘であってくれ、という感情がワタシにも、両親にもあったと思います。

ワタシの心は、本当に両親に申し訳ない、情けない、という感情ばかりが支配していました。


「父母唯其疾之憂」(父母にはただ、その病をこれ憂へよ)


これは「論語」に出てくる孔子サンのありがたいお言葉です。

とある貴族が、孔子に、「孝行の心がけとは何ですかね?~」と質問した時の孔子の言葉です。


古典の解釈には正解が無いので、孔子の真意などは分かる訳はないのですが、おおかた、学者さんの世界では二通りに解釈が分かれるようです。

一つは、

○子供はみだらに病気になって親に心配かけないよう、気をつけなければいけない。

もう一つは、

○子供は、親の病気をまず心配せねばならない。


要は子供の病気か、親の病気か、どっちを指しているのか?という違いですが、別にどっちでもいいです。


どっちにしろ「家族というものは、元気で生きてくれている、という「存在」そのものが全てなんだ」ということに尽きる、とワタシは勝手に解釈します。


古典はこうやって自分勝手に物語を解釈できるし、書いた本人が居ない分、それを誰にも批判されない、ということもいいものです。


そうなると、病気になったワタシは孝行しないことになります。


論語は紀元前の大昔の物語です。

そんなはるか昔から「家族の為に病気には気をつけなければいかんし、家族が病気になったら、真っ先にそれを心配しろ」という価値観があったということで、これはおそらく人間の基本なんですね。

これはワタシ自身が何よりそう思っています。

「家族が健康で生きていてくれること」これは人生で最も大事なことの一つです。

ワタシはその基本すら守れそうにありません。


本当に両親より先に死んだらどうしよう?

この日と前の日はそんなことばかり考え、親不孝な自分に泣けました。


今になって考えても、ワタシのこれまでの闘病生活の中で、この2日間の心の動揺が一番大きかったのは間違いありません。

不安や恐怖の相手の姿がはっきりと認識できないからです。

得体の知れない恐怖は本当におそろしいものです。

確定診断後の方がむしろ心は落ち着きました。

何故不安なのかが分からない不安は本当に恐ろしいものです。



3人帰りのバスに乗ります。診察がお昼前だったので、おそらく時間は昼下がりくらいだったと思います。


バスは空いています。


ワタシは後方の窓側の席に座り、ワタシの前に父が、その横に母が並んで座ります。



母はハンカチを手に目のあたりを何回か抑えます。

涙が止まらなかったのでしょう。


無理もありません。

母にとっては昨日から今日の展開が急すぎて、あまりに残酷です。


そんな母を心配そうに父が無言でチラチラ気にします。

心の中で「おい、泣くな」と言っているようです。


二人ともワタシの前では泣いてはいけない、と頑張っていたのでしょう。



ワタシの前に並んで座る、還暦を控えたそんな両親の背中は、今まで見てきた両親の背中の中で最も小さく、そして切なく見えました。


その原因はワタシです。

人生最大の不安を今まさに、ワタシは両親に与えているのですから・・・

ワタシもこらえきれず、両親にはバレないようこっそり涙をぬぐいました。


両親を悲しませる自分が情けない、悔しい・・・・本当にごめん。



駅に向かうバスは途中、閑静な住宅街の並木通りの信号で停車します。


この日も前の日に引き続き良い天気でした。


暖かかったのを覚えています。


春の昼下がり、窓際に座り、必死に涙をこらえるワタシたち3人に暖かな木漏れ日がバスの窓越しに降り注ぎます。


その陽射しは、すっかり小さくなったワタシの両親の背中を守ってくれるかのように、どこか優しく照らしてくれていました。



つづく

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Vol.8 過去の扉(4)2009年4月②「酒の肴は悔し涙と嬉し涙」

父さん、母さん、ごめんね


さて、Y病院にてあっさりガン告知をされてしまったワタシはその日の夜に実家に帰りました。
(当時ワタシは職場に近い所で一人暮らしをしていました。)

すっかりグレーゾーン(三ツ矢雄二ではなく)に陥ったワタシは親を頼ったのです。

翌日は父も母もA病院についてきてくれることになりましたので、翌日一緒に行こうということもあっての合流です。


ワタシが実家に着くころには夕飯の鍋が用意されていました。

夕飯はビールとつまみがあれば良い、という我が家はかなりの頻度で鍋です。冬は8割方鍋です。

母に言わせると「楽だから」とのこと。


食卓について食事が始まる前、いつもの実家のダイニングのそれぞれの席に座ります。

それまでの人生で何千回か体験しているごくごくいつもの光景がそこにはあります。

ワタシがこの世でもっとも落ち着く場所、原点の光景です。


父が目の前にいつものようにいます。

母はワタシの横にいます。



ワタシは泣いていました。



すっかり気分はガン確定ですが、その日の段階ではとりあえず何もまだわかっていませんので、話すことはそんなにありません。



ほぼ沈黙の食卓は、ワタシのすすり泣きと鼻をティッシュでかむ音がコダマします。



そんなワタシを見て哀しくなった母も泣き出しました・・・・・


「頑張ろう、頑張ろう」とワタシの膝をさすります。


すると父も泣き出しました・・・・・



そして父は感慨深い一言を言いました。


「お母さんはお前を産むとき自分の命も危うかったんだ・・・」


「そんな中産まれたお前の強さはすごいんだから絶対大丈夫だ・・・」


父はワタシを励ましてくれていましたが、おそらく父は父自身の不安を払しょくするために言ったのだろうと思います。

ワタシに向けた言葉は自身に言い聞かせているようで、それがまたワタシの涙を誘います。


父も母もワタシと同じグレーゾーン(だから三ツ矢雄二ではなく)にこの時入っていたはずです。




いつまでも泣いてばかりはいられないので、母がタイミングを見て、「さあ食べよう」とビールを抜きます。


グレーな心にいつもの母の温かい料理が染みわたりますが、あまり喉を通りません。


ビールはしこたま煽りました。


食事を終え、ワタシは実家の自分の部屋に入るとさらにビールを煽ります。


酔ってきたワタシはある女性にメールをします。

今のジョカノ(彼女)です。


実はこのジョカノとはこの時期に知り合ったんですね。

丁度X病院やY病院で検査を進めている3月です。

不思議なものです。

こんな時期に知り合って今に至るまで一緒にいるのですから。


その日の時点では、まだ知り合ったばかりの2人でしたが、当人たちが意識しないところでお互いの存在はすでに気になる存在を超えて、欠くことのできない間柄になっていたのだと思います。


知り合ったばかり、ということもあり、ワタシはジョカノに、

「俺がんらしい。俺と一緒にいてもいいこと無いだろうし、ジョカノを巻き込みたくないからもうお互い忘れよう」

みたいなメールをしました。


すると、その夜の遅くに電話がかかってきました。

何を話したかはくわしく覚えていませんが、ジョカノは、

「ふざけるな、もう一緒に居る。離れることは出来ない」みたいに怒ってくれたことを覚えています。

ワタシは嬉しくて泣いたのを覚えています。


その嬉しさと同時に、こんな素晴らしいこと言ってくれるジョカノに対して、ガンに陥ってしまう自分の情けなさにも泣けました。

いろいろな感情が渦巻き、悔しいんだか、嬉しいんだか、もうどっちかわかりません。


この時、仕事の関係で別な遠いところに居たジョカノはワタシのメールをみて、ワタシと同じようにさんざん酒を煽ったそうです。

電話の際はお互いがかなり酔っぱらっていたものですから、詳しく覚えていないのですが、ワタシとジョカノの物語はこの日に始まった、と今になっては言えます。


このジョカノですが、出会いも不思議なものでしたし、ワタシの今に至るまで、そしてこれからのワタシの人生においても欠くことの出来ない存在ですから、また別な機会にいろいろと書ければと思います。



さて、自室でしこたまビールを泣きながら煽ったワタシは布団に入ります。



部屋のドア越しに母が声をかけてきます。

ドア越しに言葉を交わします。


母 「今日はとりあえず何も考えずに寝なさい」


ワタシ「うん、ありがとう」


目を閉じます。

口とお腹の中はビールの味に涙の塩気が混じって少し吐き気がします。


そのまま寝てしまいます。



・・・・・悔しかったです。



何が悔しいって、両親を泣かせてしまった自分が情けないのです。


学生のころまでちゃらんぽらん、ダラダラやってきました。


人並みに、いや、平均以上に親には苦労をかけてきたかもしれません。


そんな中、真面目に就職をして、やっとこれから真面目に親孝行もできるかな~、なんて生意気になんとなく考えていた28歳フツウの男の子です。


若くしてガンになってしまうなんて、ワタシは自分が可哀そう、とか不安とか恐怖だとか、そういった悲劇のヒーロー気取りの感情もこの日はもちろんありましたが、一番この日の感情で大きいものは、何よりも「そんな息子をもってしまった両親が可哀そう」という気持ちでした。



なんて親不孝なワタシなのだろう・・・どうかしている・・・


自分を責めます。


さんざん迷惑と心配をかけてきた挙句の果て、この年でガンになってしまうだなんて・・・



ワタシは史上最低の子供だ・・・・悔しい・・・



うとうとしながらあたまの中でつぶやきます。



父さん、母さん、ごめんね・・・・



つづく

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Vol.7 過去の扉(3)2009年4月①「ピンクとブルーとグレーの中で」

こんな綺麗な桜と空は見たことないな


X病院のM先生に1月の健康診断の画像と、1週間前に例の「スピリチュアル激痛」によって駆け込んだ際のレントゲン画像を見比べてもらうと、ほぼ例の陰影は変化はしていない、とのことでした。


ここでまたM先生お得意の2択クイズの時間です。

あまり熱心ではないこのM医師は、自分が下手こいて患者とトラブルになったり、自分の立場が悪化することには細心の注意を払いつつ、極力自分の手のかからない方向へ物事を進めたがる、したがって選択肢を出すだけ出して、患者の自己責任を煽るのです。

典型的な保身重視サラリーマン医師です。

なにか反省しましたね、この人の仕事振りには。

「自分はこんなんじゃないだろうか?だったらカッコわり~な。気を付けないとな。」って。


M先生の2択は、

①この2カ月で影はほぼ変化なく、ワタシの体調にも変化が無い(例の激痛は別として)のであればしばらく様子見で、また何か起きたらその時は受診するなりする。
(この場合でも「ウチに何ヶ月後に定期的に検査に来てくれ」、というワタシを積極的に診ようという姿勢はM先生には無い。)

②これは気管から肺にカメラを入れて詳しく検査なりをしておく。ただ、これはウチの病院には設備が無いので、もっと大きい病院を紹介する。

というものでした。ワタシは心を決めて、この機会に詳しく検査をしておこうと思い、後者②を選択しました。これは今になって考えても賢明な選択でした。


どのみちこのX病院ではこれ以上何かが出来る訳では無い、ということも感じていましたし、M医師も何もしたくない雰囲気でしたから、それも踏まえてここは紹介状をもらって、さっさと違う病院に行くことにしました。


M先生はその場で院内PHSで何やら関係部署と話し始め、しばらくすると、「じゃあ明日、Y病院のS先生の所に行って下さい」とのことです。

Y病院はワタシの当時の自宅のすぐ近くの病院です。

X病院は職場の近くの大病院ですが、ワタシの自宅近くのY病院はさらに一回り大きい病院です。

2倍程の規模はあるでしょうか。


っというより、明日って・・・また急だな~、ワタシも暇ではないのに、と思いつつも、ワタシも早くこの異常陰影疑惑を片付けてしまいたい、との思いで次の日の仕事を上司に相談して調整してY病院にいくことにしました。



翌日Y病院で出てきたS医師はその大病院の外科部長でした。

手術の時に着る例の青い服で外来に居るS医師は外科医のイメージ通り、どこかドライな感じのする、鋭い目つきの医者でした。

ただ、少なくともX病院のM医師よりかは遥かに経験も実力もあり、頼りになりそうな感じではありました。


今までの経緯を一通り問診すると、その日は血圧や採血、胸のレントゲンなどその病院の各種の検査を回って、別な日に造影剤CTを撮りに来て、そのまた数日後に外来でS医師と結果を面談、というその後一週間程度のスケジュールを決めてその日は帰りました。

別な日に初めてのCTと、造影剤の体の火照りに少しビビりながらも何とかCTを撮って、数日後の外来を待ってる状態の時に、そのY病院からワタシの携帯に電話がありました。

事務の人だったと思いますが、「今度の外来までの間に、MRIを撮りに来てほしい、とのS医師からの依頼なのですが・・・」とのことです。

言われるがままにMRIを撮り、ここの辺りからワタシも少し動揺をするようになりました。


CTとMRIという、健康な若者にとってはあまり縁の無い物々しい雰囲気のマシーンにかけられているとさすがに「これはやべ~んじゃね~かな、もしかしたらマジのやつかも」と思えてくるものです。

ましてやMRIは急きょ追加ですから、直前に実施した検査やCTにて、何か疑わしい状況が判明した、としか思えませんし。

ワタシの中で不安が高まります。



数日後再びS医師の外来にいくと、ワタシのレントゲンやCT、MRIの画像が既に準備をされておりました。S医師の説明が始まります。

「健康診断で引っかかった画像はおそらくコレです。」と、

それはX病院でも見たレントゲンと同様の写真で、そこまでの説明はX病院M医師と同じ説明です。


「それでその部分のCTがココで・・・」と先日撮ったCTの画像を示します。

今となっては飽きるほど見た自分のCTの画像も、初めて見るこの日はなんだか不思議な感じでした。

テレビドラマでしか見たことのない映像が目の前にあります。

確かにボコッと腫れています。


S医師は続けて、「この部分の腫れなんですが、実は心臓の隣にあるこれが原因っぽいですね。」と、心臓の手前に、なんと心臓よりも大きいんじゃないか、という塊が写っています。

それが異常な画像だということと、大元の腫れと、それが原因の腫れがある、ということは既に転移がある深刻な状態なのですが、そんなことは当時のワタシは分かりません。


痛みももちろんなく、日常を普通に過ごしていましたので実感も出来ません。

ワタシは画像を覗きこみ、「はあ・・・・」という当然のリアクションをします。



一瞬S医師は間を置いて、ついに衝撃の言葉を発します。

ここからが本番です。

ドラマチックな流れになります。






S医師 「そんで・・・・・これなんですけどね・・・・ガンの可能性があります。」









ワタシ「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」








止まりました、時が。


こんなあっさりとガン告知されるものなんですね。


正確に言えば、これは可能性の告知なので、確定診断の告知ではありませんが、患者にはそんなこと関係ありません。

医者がガンの可能性がある、と言えば「ガン」と思うのが普通です。


S医師は医学事典的なものを開いて、ワタシに可能性が考えられる疾患をいくつか示してくれていたのですが、残念ながらワタシは一切ここら辺の詳しい記憶がありません。

アスベストのことを聞かれた記憶はあるのですが、詳しくは覚えていません。


S医師は続けて、「ちょっとこれはガンとしても専門の病院に診てもらった方がいいね。」とのことで、すぐに紹介状を書くから、待合室で待っててくれ、とのことです。


がん、がんと続けて言われてしまったので、ワタシも、「・・・・・ガ・・・・ン・・・・ですか・・・・・・」くらいしか言えなかったです。



S医師「うん・・・私ももちろんガンじゃなければ良いと思うけど、残念ながら五分五分よりは高い確率でガンだと思う」とのことです。





ワタシ「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」






その間ワタシはボンヤリと、S医師の目の前にあるCTの画像に写っている、心臓の隣の、心臓と同じくらいの大きさのガンらしき塊を見つめていました。


CTの画像ですから白く淡く映っていますが、私にはその部分だけ、まるで悪魔の魂がワタシにほほ笑みを投げかけているような、気味の悪い、グレーの塊に見えていました。

そのグレーの悪魔の魂のような塊が今にもフィルムから飛び出し、ワタシの体に飛び込み、悪魔がワタシを支配してしまうのではないか、というような錯覚を感じていました。


紹介先の病院は全国にその名が知れ渡るA病院です。

どんどん行く病院が大きくなります。

これまた急に翌日に行ってくれ、ということになりました。


Y病院の待合室でS医師が書いた紹介状と、翌日のA病院の外来案内のメモをもらいました。


ワタシにそれを届けてくれたS医師の助手をしていた看護師の方は、この一部始終、ワタシの動揺っぷりを見かねて、「ご両親は同居ですか?すぐに連絡された方がいいのではないでしょうか?」と声をかけてくれました。

その時の看護師さんの顔がとても切なく、逆にワタシはその看護師さんの切ない、ワタシを憐れむ顔によって、事態の深刻さをさらに自覚し、動揺を強めることになってしまいました。


なんとか冷静に正気を保ち、お会計を済まして、ワタシは病院の入口付近の待合所のソファーに座り電話をかけ始めました。


その日は午後から職場に出勤する予定だったのですが、上司に電話して、この顛末を話し、翌日、A病院に行くから休みたい旨と、今、これから両親と会うつもりなので、今日も休みたい、という申し入れをしました。

どっちにしろ仕事に行ける精神状態ではありません。


実はこの頃からワタシが例の激痛事件以来、健康診断の異常陰影の話もあいまって、なかなか病院通いが終わらない為(X病院やY病院には仕事の合間に行かせてもらったりしていたので)なんとなくワタシが深刻なのではないか、という空気感が職場には漂っていました。

まさか職場の人達もガンだなんて思ってはいなかったでしょうが。


すんなりと上司もワタシの申し入れを聞いてくれて、次に父親にメールです。


事態の深刻さにワタシは一人では耐えられず、両親を巻き込まずにはいられませんでしたし、どの道これはタダじゃすまないので、遅かれ早かれ両親には言わなければならない事実です。


実は例の激痛があってX病院に行った、という簡単な報告は母親にはしていました。


母親も「なんだろうかね~まあちゃんと診てもらいな」くらいしかその当時は会話をしていませんでした。


おそらくそこまでの話が父親に伝わっていたのでしょう、ワタシのごく簡潔なメールに対して、


父は「わかった。明日一緒にA病院に行こう」と、すべてを悟ったかのような返事をくれました。


このメールはとてもうれしかったのを記憶しています。ワタシの不安で仕方ない気分が、父のそのメールで少しだけ和らいだのです。

今思うとこの時の父の動揺もワタシと同じかそれ以上であったはずです。冷静だった父に感謝をしています。



上司への電話と父とのメールを済ませ、外に出ました。


Y病院の隣には用水路が流れており、その脇は結構な数の桜並木が遊歩道とともに綺麗に整備されています。

地元でも有数の散歩コースのようでした。


4月も半ばに差し掛かろうとしており、桜ももう終わりです。


激しい動揺を抱えたままワタシは外に出ました。


その時ワタシの心は、あの心臓の隣に不気味に写る悪魔の魂のような、ガンらしき正体不明の塊と同じ色のグレーで支配されていました。


グレーの心を通して見ると不思議なもので、桜のピンクは、今までにワタシが見てきたであろう、どのピンクよりも色鮮やかな美しい、そして優しいピンクでした。


その日は澄み切った青空でしたが、空のブルーは、今までワタシが見てきたであろう、どの空よりも澄み渡る、まるで宇宙の果てが覗けるかのような深くて、かつ美しい、そして力強いブルーでした。


ワタシがこれまで経験したであろう、どの不安よりも不気味な得体の知れぬ不安は、そのままグレーな背景となり、ただただそのピンクとブルーを鮮やかに引き立てています。



この日の桜と青空は、間違いなくワタシがそれまでの人生で見てきた中で一番綺麗でした。



つづく

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Vol.6 過去の扉(2)2009年3月「スピリチュアルな痛み」

今になって思えばですけど・・・


トイレに駆け込み、30分くらい居たでしょうか、なんとか歩ける位まで体を落ち着かせてデスクに戻り、これはただ事ではないと思いましたので、PCで職場最寄で救急対応をしてくれる、なるべく大きい病院を検索しました。

X病院があったので、ワタシは上司に事情を話し、上司もワタシの顔色を見るにただ事では無いと理解したのか、すぐに病院へ行くことを認め、ワタシは一人タクシーを呼び、予め電話をしておいたX病院に向かいました。

タクシーで40分くらいかかったでしょうか。

運転手は 「この時間にX病院なんてお見舞いですかあ~?」 なんて話しかけてきます。

ワタシは痛みをこらえるのに必死に集中していましたからモチ運転手にかまってなんかいられず 

「いや、腰に激痛が走ってね、ワタシが救急に行くのだよ。」 というと、

なんとその運転手は 「あ、大変ですね、それは。いや、私も最近実はね~」 っと、なんと、ワタシの必死の
「話しかけんじゃね~よオーラ 」

を何なく突破して平然と世間話を繰り出してくるじゃありませんか。

心の中で閉口したワタシは基本運転手を無視し、たまに反応しても 「あ~、そう」 と素っ気ない相槌しかしないのにもかかわらず、結局病院に着くまで世間話は止みませんでした。

今でもこの巨体で下品な運転手は残像に残っています。


さあ、日もすっかり暮れて通常の受付業務は既に終わったX病院に通用門らしき所から入ると、ほぼ真っ暗で数人のスタッフが居るのみでした。

まず案内をしてくれた看護師の女性に事情を話します。

一応、健康診断で胸のレントゲンが引っかかった旨も話しておきました。


とりあえずは採血してレントゲンを撮ることになりました。

それを終えて、結果が出るまで待ち、診察室に通されるとスリッパ姿の医者が出てきました。

当直対応だったのでしょう。

比較的若い男性のM先生です。

再度一通りの事情を話すと・・・


M先生「骨や採血の結果に痛みの原因となる異常は見当たらないんですよね~、大丈夫だと思います。痛み止めは出せるけど、多分効かないと思います。どうします?」

というなんとも論理性に欠けるファジーな回答。


ワタシはこの時点ですでにM医師に対して諦めの気持ちを抱き、

ワタシ「効かないなら、いらないですよw(M医師を信頼してないのだよ、ということをアピールする苦笑いを浮かべてやる)」

ワタシ「それより、健康診断で胸のレントゲンが引っかかってたんですけど、それと何か関係ありますかね~?」

M先生「ええ、それなんですけどね~、確かにココに何かあるんですよね。でもこれは痛みとは関係無いと思います。」


ワタシはこの時、以後ふか~いお付き合いをすることとなる腫瘍クンのレントゲン写真をこの時初めて見たのです。

健康診断で引っかかってはいたものの、健康診断の結果と同時にその時のレントゲン写真が送られてきて具体的に「ココが異常です」と示してくれる訳ではありませんので。

M先生に見せられた際はもちろんそれが腫瘍である、だなんて思ってもいなかったのですが。


M先生「その健康診断が1月のものなら、今2カ月経ってますよね?この間のこの影の変化がどうなっているかは診てみてもいいかもしれませんけどね。」とのこと。


M先生からは、この日X病院で撮ったレントゲンを持参して、健康診断をした病院で改めて相談するか、それとも1月に健康診断をした病院からレントゲンの写真を貰ってきてX病院でまた診てもらうか、という二つの選択肢を示されました。

健康診断を受けた病院は、普通の駅前にある内科のクリニックみたいな病院ですから、ワタシの胸の影の詳細がそこで解明出来るとは思えません。


M先生はあまり熱心ではなく、信頼も出来ませんでしたが、ここは我慢してとりあえずはX病院で詳しくまた診てもらうことを選び、その旨をM先生に告げると、M先生は約1週間後の外来のスケジュールをワタシに取ってくれました。

結局肝心の痛みについてのM先生の判断は様子見、また何かあればすぐ来てくれ、と社交辞令的な診察を終えて夜遅く家路に帰りました。

痛みは大分おさまっては来ていましたが、まだ痛いことは痛かったのです。


なんだかX病院はその地域の医療を支えると謳われている一番大きい病院でしたが、ワタシはM先生の言葉も信頼出来ずに、翌日ワタシは痛みは多少治まってはいたものの、家の近くの整形外科を訪ねてみて、痛みの原因を探ろうと思いました。

結局ここでもはっきりと原因はわからず、肋間神経痛じゃないか?、などと素人のワタシでも少し調べればすぐに違うとわかるような診断しか受けれませんでしたが、痛みも2日経ち、3日経つとだんだんと収まってきて、ワタシも放っておき普通にその間は仕事に戻っていました。

1週間経ち、再びX病院を訪ねる頃にはすっかり痛みは無くなっていました。


結局、この痛みのおかげでX病院から、この後登場します、Y病院、そしてA病院にて検査を重ね、胸に胸腺腫があることが発覚しました。

ワタシは今現在に至るまで、腫瘍のある部分やその周囲がこれほどまでに痛んだ、という経験は全くないのです。

この時の痛みが腫瘍の痛みなら、今に至るまで痛みは続いていなければおかしいです。

後にも先にもこれほどの痛みはこの1週間、というか激痛はほぼ半日だけでした。

不思議でしょうがありません。

原因も分からないままです。


今になって思えばですけど、この時の痛みは完全にワタシに「病気の存在を気付かせるだけの為のモノ」であったに違いありません。

ワタシはこの世とは別の死後の世界や、死んだ肉体と離れての死者の意志の存在などは信じることが出来ませんが、前の記事で書いた通り、その前の年末に死んでしまった祖父や、18年間ウチに居てくれて、祖父の後を追うように死んでしまったペットの猫が、ワタシの背中をつついて病気の存在を教えてくれたのか、それとも別な何かの力かわかりませんが、これに限ってはワタシの心の矛盾を超えてスピリチュアルな解釈をせざるを得ません。

誰かが、何かが教えてくれたのでしょう。


さてさて、1週間たち、その間にワタシは1月に健康診断を受けたクリニックにその際の胸のレントゲン写真を取りに行き、それを持って再びX病院のM先生の外来を訪ねました。

バタバタした1週間を過ごすうちに3月も終わりになり、春の心地よく温かな風に桜の花弁が舞う、ワタシも大好きな季節へと移り変わろうとしていました。

つづく

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Vol.5 過去の扉(1)2008年秋~2009年3月「生涯一番の激痛」

いたた、いたた・・・   Σ( ̄ロ ̄lll)


ワタシは都内のごく普通のサラリーマン家庭で産まれ、ワタシもまたごく普通のサラリーマンとなっていました。


時は2008年秋です。

直前は北京オリンピックでした。

確か職場の仲間とレストランで飲みながら、100mの中継をレストランのスクリーンで見て、ウサイン・ボルトの走りに大興奮した思い出があります。

また、当時はまさか今に至るまでこんなにも経済に暗い影を落とすとは思えなかった「リーマンショック」が発生した時期でもありました。


ワタシは2008年の秋のタイミングにて、会社から人事異動を言い渡され、秋からは新たな現場にて奮闘しておりました。

リーマンショックが起きた時期にも関わらず新しいことをやる現場に抜擢されてしまったもので、かなり忙しい日々を七転八倒しながら過ごしていました。


ウチの会社は秋に健康診断を受けなければなりませんが、丁度そのタイミングで激動の現場に配属されたものですから、現場の仲間含めて激務に追われ、皆健康診断どころでは無かったのです。


丁度その時期なのですが、年末にかけて、ワタシの祖父が死に、実家で飼っていた猫が死ぬ、という出来事がありました。


そして健康診断ですが、結局激務は相変わらず年末年始まで続き、本来秋に受ける健康診断が年明けにずれ込んでしまったのです。


年明けに健康診断を受けて2月には結果の紙が会社経由でワタシの手元に届きました。



そこには胸のレントゲンについて「要再検査・異常陰影あり」と記載されていました。



それまでの人生でワタシは風邪などひきやすかったり、鼻炎だったり、なかなか貧弱な面はありましたが、大病の経験、入院や骨折や点滴の経験すらなかったのです。

まあ28歳でしたからそんなものでしょうが。


当然、その健康診断結果通知も、それが深刻な意味を持つものとはみじんも思っておらず、当時は職場の同僚などに、「異常陰影だって、俺ガンじゃね??うわ~、終わったな・・・」などと、完全にナメ腐ってふざけるあり様でした。


その後も現場の激務は続き、少し落ち着いたらじっくり再検査を受けよう、とは思っていたものの、そうやって軽く考えていたこともあり、再検査をうけずに3月も半ばにさしかかってしまっていました。


そんな3月、丁度今から3年くらい前になります。

ある日の夕刻、ワタシは職場で左の腰から背中にかけて、体の中に悪魔に手を突っ込まれて骨や肉をギュ~っと掴まれているような凄まじい激痛に襲われました。


思わずカラダが左にねじ曲がってしまうような激痛でありました。


倒れこむような激痛にとりあえずパニックになったワタシは周りに悟られてはいかんと、トイレの個室にかけこみ、冒頭に書いたように一人で悶絶したのであります。


つづく


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